母 柳原タケ 恋文大賞受賞 ・・恋文・・ 1995年秋田県能代市二ツ井町主催 日本一心のこもった恋文
秋田ほんこ第3期 第11集(通巻46号) 1999年9月9日発行 TOPへ
佐藤緋呂子のエッセイ・・・それは母の恋文大賞受賞の二ツ井町からのご褒美の旅でした
恋文・旅の画帳 マディソン郡の橋 そしてニューヨーク
女4人の心ときめく華の旅
1 最初で最後の『恋文』
ロングドレスの母が舞台中央のスポットライトの中にスーッと(ズシッ ズシッ?)と現れた。
母の大輪の花が今この時と一生の全てをのみこんで咲いている・・・・。
つきあげてくる熱いものを感じながら、母の一世一代の晴れ姿を胸にしかと収めた私だった。
1995年2月14日 秋田県二ツ井町で『第1回日本一心のこもった恋文』の授賞式がとり
行われ栄えある大賞を母がいただいた。
雪が舞いバレンタインディにふさわしいロマンチックな恋文祭だった。
その前年、体調をくずした母がやっと快方に向かい、字が書けるようになった喜びにウキウキ
していた時、偶然に出かけた郵便局で『恋文募集(主催秋田県二ツ井町)』のポスターを目
にした。
『書いてみようかな』と最初で最後の恋文をしたため、ポストに投函してそれで全てが終わって
しまう筈だった。
ところが応募した恋文のなかで一番短く飾らない素朴な文章が、かえって迫力となったものか
審査員の目にとまってしまい、全員一致で大賞に決まってしまったのである。
それに戦死した夫への手紙 『天国のあなたへ』 は、戦後五十年という節目にタイミングの
いい恋文だった。
思えば一年前のことだった。
秋に応募して年を越した一月のある日『百一編の中に選ばれたヨ・・・』と東京の私に母からの
電話があった。
『このなかから大賞に選ばれれば、アメリカ旅行が貰えるって・・・・』
『えー!』
その時だった。アメリカ大陸がわたしに向かってドーンと近づいてきたのは。
『行けるかもしれない!』
思わず叫んでしまったが、そのときはまだ母の『ラブレター』なるものを読んでいない・・・。
『その下書きあるの?』
『広告の裏に書いたけど、丸めて捨てた。それに歳をサバよんだし、人に読まれればしょしくて
(恥ずかしくて)町内も歩けない・・・・』
『なんて書いたの?』
『ひとめ(格好)悪くて云えない・・・』
それなのに手紙は大勢の人に読まれ、81歳を80歳と可愛いサバをよんだ母は、今ではちゃんと町内を
歩いている、、、。
授賞式が終わるや否や、母のもとにはテレビ、雑誌、新聞と取材が嵐のようにやってきた。
東京から孫の百子が駆けつけた・・・2月14日の授賞式
なかには取材の若い記者に、終戦後は着物をお米に代えたり、配給の小麦粉を町内で知恵を
出し合いせんべいを焼いたり(お米の配給が無かった!)とその当時の人々の暮らしを話したら
『母は服の行商とせんべいの販売で子供を育てた』という美談になり全国版に流されてしまう
笑えない話もあった。
涙鼻をこぼしながらこの記事を書きましたという若者には、前途もあることだし『気をつけて頑張って
下さい』としか云えなかったが・・・・。
がこれには後日談がある。何年か経って一流新聞社のこの記事をもとにして『今日は何の日』
というテレビ番組が作られ、またまた全国に流されてしまった! ( なんたること・・・!!!!)
恋文大賞の副賞として粋な二ツ井町の計らいで、ベストセラー『マディソン郡の橋』を訪ねる
アイオワ州デ・モインまでの切符をペアでいただいた。
『他に好きなところを』といわれ、迷わず憧れのニューヨークと答えたところあっさり決まってしまった。
母は『歳も歳だからアメリカまではとても行けない、無理。』と一度は断って町を慌てさせたが
負ぶってでも連れて行けという、ウチのヒトの強烈なアドバイスに従ったのだった。
結局、母と私だけでは心もとないからと、娘の百子と従姉の洋子が加わって、四人で六月の爽や
かなアメリカへ行くことになった。
出発三日前、ウチのヒトが二ツ井町の役場に電話していた。
『添乗員無しで出かけるとは思わなかった・・・・!!!』
ちょっと凄んだ声が、デモインのことを『デーモン、デーモン』と繰り返している・・・。
(担当の野呂さん すみませんでした)
(そんなこといっても、もうあさってのことだし、もう決めたのだから行ってくる・・・・)
わたしは決心していた。明日はタケ母さんとヨーコが上京してきて、靖国神社の父に報告の
お参りをする段取りにもなっているし・・・・。 今更・・・・・。
(もっとも、ウチのヒトが『ノースピーク・イングリッシュ』の四人を心配するのは当たり前?)
映画 マヂソン郡の橋のポスターの前で・ ニューヨーク5番街
2 身も心も軽く さあ旅へ
6月21日 快晴、
スカイライナーでまず成田第一旅客ターミナル4階カウンターへ向かって上野を出発。
『プティバカンス』の看板を探して広いターミナルを一周。
そしてついに無事にカウンターを発見! そうだ、一週間の最高のバカンスがこれから
始まるのだ。
そこで先ず両替、円をドルにチェンジ。1ドル85円の円高也。緊張と興奮のなかでいよいよ
出発というその時、ハイジャックのニュースが館内に流れた。
場所は日本国内らしい、でもタケ母さんには内緒。ここで知られてしまったら、パニックに
なって全てが水の泡・・・・、幸い耳に入らなかったみたいでホッとする。
とにかく4人だけの旅はもう始まっていた。
ヨーコの背中のリュックがバカに大きい。
『何がはいっているの?』
『笹巻き。秋田駅で見送りの人から頂いたの・・・』
『重い?』 『うん』
早速宅急便で半分を調布の我が家へ送ることにした。
これが日本最後のしごとで、身も心も軽くなって
いざ アメリカへと出発したのであった。
出国審査は家族の旅ということで、4人が横並びして一度に簡単に済み(こんなの初めて・・・)
ノースウエスト航空・608便の機上の人となったのは午後の4時だった。
が、なんと席が離れている!わたしを中心にして母、姉、娘で家族だと説明すると、
『オー、ファミリー!!』と気さくなスチュワーデスたちが、あちこちにお願いして4人を並べて
座らせてくれた。サンキュー
4時20分 定刻に飛行機は離陸したが、見回しても日本人は見当たらない。もうすでに外国
みたい。 シアトルまでの飛行時間は8時間20分だった。
『なんだ、まるで昔の特急で東京、秋田間の時間じゃないの・・・』
4人がグッと気が楽になった時、機内のサービスが始まった。
『チィー?』 『ワァラー?』 『カフェ?』
そのうち初めての夕食もやってきた。覚えたての英語で
『イエス、プリーズ』と答えてフィシュ組とチキン組に分かれて注文する。なんとケーキ付き!
ベルトをしたままなので『まるで食べる機械のようね』といいながらも一同嬉しそうにパクパク。
10時間の時差のためすぐ窓の外は真っ暗になり、もう一度、21日の日をやりなおしている。
シアトルへは21日の朝9時に到着するというのだが、とにかく飛行機は夜明けに向かって
飛び続ける。
シアトルまでは夜明けを追いかけ時間が逆戻りする
夢うつつで 空の不思議なドラマを見ていた。
3 27歳の母を残して
父、淳之助はわたしが生まれて100日目に召集令状がきて出征し、
その3年後に27歳の母を残して戦死した。享年32歳だった。
父は亡くなる2ヶ月前の2月 わたしがもうすぐ3歳になる頃、中国北支山西省から一時帰国し一日だけ秋田に帰って
きている。
わたしはその日のことを不思議な出来事として心の奥にづっとしまい、しっかりと記憶していた。
物心ついて父に逢った、たった一度だけの日のことを。
祖父が経営していた『はかりや印刷所』の従業員の人々が気ぜわしく動き回り、祖父母、叔父
叔母、そして母がその日は『そわそわ、ざわざわ』していた。
浮き立つような空気の中、その人『父』は現れた。わたしにとって『父さん』という意味がわから
ないまま、みんなが『父さんだよ』という切羽詰った言葉の中に、とっても『大事な特別の人』なの
だということをつよく感じていた。
眼鏡をかけ、髭を生やしたその人は少し恥ずかしそうに
『おいで・・・・・』と両手を差し伸べた。
わたしは固くなって『抱っこ』された。
翌朝、雪の中をカメラを構えて叔父(洋画家・柳原久之助)が待っていた。
着物姿の父が両手を差し伸べたのに、わたしは母にしがみついたまま、その写真のなかに
おさまってしまった。
父は差し出した手を袖の中に組み、わたしは気にしながらも母の腕の中にいて、そして
一枚の親子の写真が残された。
それからずっとわたしは『悪いことをした』という思いに胸を痛め、5歳になるまでそのことを
悔やみ続けていたのだった。
5歳になったある日、母と上京し皇居二重橋の前で大勢の兵隊さんたちに出会った。
その中でひときわ目立って凛々しい兵隊さんが振り向いた。
『おいで・・・』と手招きしわたしに両手を広げた。
(アッ、今度こそは笑って『抱っこ』されよう・・・)あの時の人ではないと直感しながらも
わたしは思いっきり走り、勢いよくその人の胸の中に飛び込んだ。いままでのわだかまりが消えて
心がスーッと晴れていくのを全身で感じていた・・・。
その人は父の隊長、杉山元 その人だった。
それは父の戦死から2年後母はまだ30歳の若さだった。
・
・
・
左側の窓から夜が明けてきた。朱色、群青、浅黄色が層をなしてどこまでも続く・・・・。
うっとりと眺めていると
『ジャパン?』とスチュワーデスが小声で聞いてきた。
おもわず『はい』と答えると、中国の方かと思っていました。と中国人のスチュワーデスかしらと
わたしたちが思って声をかけなかったのと同じことを言う。
聞くと、なんと秋田の『ミネソタ大学』の卒業生だった。
国際結婚をしてシアトルに住んでいるという彼女に、5人目の日本人を確認してホッとしたこと
はいうまでもない。
『母を思い出します』という一言でタケ母さんは感激。
『空の上で秋田のひとに会うとはねえ。頑張ってね』と梅干を瓶ごとあげてしまった。
4 ラブレターのクィーン
6月 21日 10時近くにシアトル着、今頃日本は夜中の2時それをいうとみんな疲れを
おこすから、いわないことにする。
それにしても清清しいシアトルの朝だった。
ここでアメリカに入国となるのだが、女性の入国審査官が『ファミリー?』
『イエス』と答える。
『タビは〇Χ□△・・・?』旅をしてますか?と聞こえたので大きく
『イエース』 が『オー、ノー!』と肩をすくめられて 『えっ?』
『タビモーノ○×□△・・・・・?』と再び
『食べ物?オー・ノー、ナッシング』
日本語のたべものが通じたので、あちらさんは大きく頷いて大満足の笑顔で『オーケィ』
これで無事に入国してしまった。
しかし、なんと実は、笹巻きという本当の『タベモノ』を背負っていたことを
すっかり忘れてしまっていたのだった。
シアトルで国内線に乗り換える。大陸を横切ってミネアポリスへは約5時間のフライト。
シアトルに着く前に機内ではサラダ・コーヒーの軽い朝食を済ませていた。
(本当は夜中の1時なのによく食べるなー・・・)
さて雲の上に出たらもう昼食。なんだかんだとよく食べる。ケーキはいつでもついている!
これも幸せのうちなのかなー?・・・・。
機内ではフランス人の家族とならんで座ったが、今度こそ日本人は我々4人のみ。11歳のダニエル君の隣で
タケ母さんが折り紙を披露している。勿論パントマイムで。鶴が出来上がるとその隣のお父さんも喜んでいる。
するとその子が、お返しのつもりかポケットをゴソゴソ探して赤い毛糸を取り出し、あやとりをはじめた。
あやとりってどこの国にもあるのかなァ・・・と思いながら皆であやとりを取り合って小さな国際親善の輪を
広げたのだった。
ミネアポリス着が1時間も遅れて到着した。乗り換えの時間があまり無いし、チケットを一応確認のつもりで
カウンターの女性に尋ねた。
そのレディが親切にチケットにGOと書いてくれて、方角を指差した。
『モモ、向こうだって・・・』
そこで指差す方向に5分ほど歩いたがゲートが見つからない。お店がズラリとならんだマンモスターミナル。
『GOというのは、行け!ではなくて、もしかしてゴールドというエリアの色のことかも!』とモモ。
『そう?!・・先に行ってチケットをチェックしてもらってて!!』とわたし。
GOLDのエリアに向かって走るモモはドンドン小さくなって小指の先ぐらいになった。
左側の方ではタケ母さんとヨーコが親指の先ぐらいに遠ざかりながら、呑気にウインドウショッピングをしている。
ああ時間が無い!!
その時、荷物を乗せたカートがやって来た。
『マイマザーを乗せて!ノータイムなの!』 『O〜K』 通じた!!
二人を拾ってカートに乗せてもらい、わたしも乗ってゴールドに向かってGO.
モモと合流してやっと間に合った!
『ハンサムだこと・・・』余裕のタケ母さんはカートのお兄さんに惚れ惚れとしたまなざし。
やっぱり、ラブレターのクイーン也。
デモインまでは、ちょうど秋田と東京間の距離で約1時間。
出迎えの人が空港で待っていてくれる手筈になっている。女の人か、男の人か、はたまた日本人か
アメリカ人か、期待のうちに、デモイン空港に到着。
このあたりからアメリカタイムに馴れてきたのか、いま日本は何時、などと全く思わなくなっていた。
ネームカードを持った松山さん(日本人の男性だった)とドライバーのKenご夫妻の3人が出迎えてくれた。
「ハイジャックがあって大変でしたね」 松山さんの開口一番にドキツ。
でもタケ母さんには聞こえなかったらしく、ホッ。
何か軽く食べたいという4人の要望にウインターセットの町のレストランに連れていってもらう。サラダを注文。
松山さんが4人で1個でいいかもしれないと遠慮がちに云ってくれているのに、サラダだけでは物足りないと
パイも注文する。
運ばれてきたストロベリーパイを見てその大きさに仰天!! 1人前といってもほんと4人分はありそうな
巨大パイ。そういえばまわりの女の人たちのお尻の大きいこと!テーブルを横切る大きなスイカみたい。
さすがアメリカはデカい!
美味しいパイは残りを包んでもらってホテルへ。ホリディ・ダウンタウン泊。パイに潰されてか疲れきって
そのあとの記憶は全く無い。世にもながーい一日が終わった。
シアトル空港 ミネアポリス空港
5 一番ハイカラなのが私
フランチェスカの家までのウネウネした道・ 山がなくどこまでも丘がつづく・・・
6月22日 朝食を済ませた4人を松山さんが迎えにきて、いよいよ本命の「マデイソン郡の橋」へと向かう。今は
涼しいが日中は軽く30度を越すからと白い日傘を2本、奥さんから借りてきてくれていた。そういえば陽射しも強く
なってきている。
郊外に行くとあちこちに屋根つきの橋が架かっているが、映画の舞台になったローズマン・ブリッジが一番
美しいとか。映画はそのころ日本では未公開だったが、アメリカは公開中で観光客が沢山来ているらしい。
夏は40度を越す暑さなのに、冬はダイアモンドダストが舞うマディソン郡。屋根のある橋で冬は風と寒さ、
夏は陽射しを避けて暑さを凌ぐローズマン・ブリッジは名のとうりローズ色をした美しい橋。そこで小説の主人公
の二人が出会った場面を想像しながら、4人並んで記念撮影をする。後に二ツ井町で「一番ハイカラなのが
わたしです}と母が説明したその写真である。
「デモインは山というものが無く、丘ばかりです」と松山さんが云うように、道はウネウネと上ったり下がったり、
まるで長いリボンを敷いたみたいで、前を走る車が見えたり消えたりしている。
数キロ先に映画の舞台となったフランチェスカの家があった。イーストウッドがヘリコプターで見つけた廃屋が
映画で蘇りラブストーリーの舞台そのままに、今は観光名所ともなっている。
気温は高くても湿気が少ないので、身体は軽いといって庭の揺り椅子に座りながら
「ここに移住しようかしら」とタケ母さんはご機嫌である。
芳名帳(?)に4人が漢字でサインしたら、日本人は初めてだとかで拍手で大歓迎された。
またウネウネとバウンドしている道を戻って町の観光課に立ち寄る。そこのロビーに実物大の
ジョン・ウェインが立っていた。ここウインターセットは彼の生まれた町でもあって、観光に一役かっていると
いうので、今は博物館になっている生家に立ち寄ることにした。その前にジョン・ウェインと並んでパチリ。
紙一枚の彼が倒れ込んできたりして「オットット」。紙でも嬉しい・・・!?
そしてその足で博物館へ。市のシニアのボランティアの皆さん。西部劇そのままの華やかなドレスを
着込んで、心はいつもジョン・ウェインの恋人気分の素敵なレディたちに、とびっきりの笑顔で迎えられた。
写真はNOなのでカメラを預けた。帰りそのカメラを返してもらおうとしたら「オー売っちゃたわ!・・・」と、
どこまでもハイで、チャーミングなおば様たちだった。
昼食は映画で使ったレストランへ行った。そこは旅行者で一杯で入っていくと一斉に振り向き、日本人と
わかると、みんなニコニコし、どこが気に入ったのか、珍しいのか「オー プリテイー」
もしかしたら・・・(Tシャツの猫のことかも・・・?」
アイオワの真っ赤な太陽、素晴らしい夕焼けでその日は暮れる。
6 風呂敷広げて笹巻き食べる
6月23日 朝食をとってる暇が無い。早朝6時に出発!
デトロイト乗換えでニューヨークへ12時に到着の予定。時差が1時間ある為か機内食も無しのフライトで、
出迎えの田路さんに会ったころはお腹ペコペコの状態。
ホテルの裏のデリカショップでモモとお昼の買い物。ヨーコとタケ母さんはホテルの絨毯の上に大風呂敷を
広げ、笹まきをバスルームのお湯で温めて待っていてくれる筈。
朝から何も食べていないので、お店ではなんでもおいしそう。食べたくて、食べたくてスイカまでかごの中に
入れる。
レジで「えッ、ホント〜?」モモの声。かごのまま全てを秤にのせて「〇〇だから〇〇ドル」。まさかの本当で
おおまかもいいところ。
「ホントにいいのォ・・・?」レジの黒人のハンサムなお兄さんにまだ言ってるモモ。
ホテルで2時過ぎの昼食にやっと人心地がついて、ヤレヤレ。
でも「ヒルトンホテル」で風呂敷広げて笹巻き食べて、ランチタイムしてるなんて誰も知らないだろうな。
ちょっと落ち着いたところで近くの近代美術館・MOMAに出かける。4時には迎えが来てくれて、今夜は
ロックフェラーのレインボールームで最高のディナーの夜を楽しむことになっている。
ノーネクタイでは断られる場所なので、最高のおしゃれをきめこむつもり。
4時に横山さんが迎えに来てくれて4時半到着。着くやいなやボーイにエスコートされて、ドキドキしながら
席に座る。ピアノの演奏のあとはダンスタイムで華やかなムードのなか、素敵なカップルがフロアで踊りだす。
フロアに背を向けて座っているヨーコ。「ネエー、今フロアではなにしてる?」振り向くのははしたないとばかり
エレガントに聞いてくる。
「素敵なカップルが踊ってる・・・」とわたし。(本当は王子さまでも現れて踊りたかったー・・・)
次々と運ばれてくるお料理に、この世の贅沢を味わっているモモも、ヨーコも、タケ母さんもすごい美人になって
輝いた夜だった。
レィンボールム・ロックフェラー ニューヨーク5番街のパレード
そして8時、再び現れた横山さんがニコニコしている。ブロードウエイの「美女と野獣」のチケットがとれたらしい。
なかなか手に入らない人気のミュージカルなのに、ほんとに運がいい。
キャンセルがあったのか真ん中の一番いいA席? 四人はふわりと座った。その途端、まずタケ母さんがグラッ。
ついでヨーコがグラッ、モモもグラリ。とにかく朝5時におきてデモインを出発し、レィンボールームでは超緊張して
ドキドキし、それにミュージカルは英語の劇だもの、しかたがない・・・?
そのうち、野獣の髪型が「ヒロコとそっくり!」だと誰かが言い出してからはすっかり立ち直って、物語の中に
引き込まれていった。
野獣が王子様になるクライマックスでは感動して涙している。
古今東西、昔も今も、愛は不変で必ず人の心を動かす・・・。
さて人の波に押されて劇場の外に出てびっくり!人々がさんざめく通りにはネオンが輝き、昼間のように明るくて
「夜のニューヨークは恐い!」という概念は見事に吹き飛んでしまった。でも何が起こるかわからない。
4人はスクラムをがっちり組んで、ブロードウエイの人の流れに溶け込んで一路ホテル目指して行進開始。
掛け声をかけながら…イチニ、イチニ。
夜中の12時なのに、タケ母さん、よくがんばったなー。
今夜のオプションの値段は一人170ドル。大盤振る舞いだったので、これもがんばった!
7 ニューヨークの夜は更けて
6月24日 ハーレム半日観光に中島さんがガイドをしてくれて出かける。
昼食はソールフードのレストランで鶏のから揚げやらおひたし?がでて、ちょっと日本の食堂を思い出す。
生バンドのカルテットはイバネバの娘、素顔のままで,を演奏してくれたが、ハーレムの人たちは
我々にとてもとても優しかった。
今夜のオプションは、マンハッタンの美しい夕焼けを眺めながらのディナー。映画の世界にいるみたいと
大満足の夢のような夜景にもめぐりあった。このあとエンパイアステートビルにのぼる。
82階なのに眼下には雲がたなびいて、まるで山の上にポツンといるみたいで、心細いやら怖いやらで
いい気分ではない。急にトイレに行きたくなって行列していたら、時間が来てしまった。あっという間にまた
エレベーターで1階に着いたが、ここも大勢の人でごったがえっている。
見上げればあの雲たなびくあたりに、4人の分身(?)を置いてきたビルは、ライトアップされてどっしりと
建っていた。
6月25日 NYを半日ぶらり
5番街で陽気なパレードに会い、バッテリーパークでは海に向かって座り4人並んでソフトクリームを食べる。
この海の向こうが日本かしら…などとふと思いながら・・・。ヴァイオリンひきのおじさんが遠くで「さくら・さくら」を
弾いているのが聞こえてくる・・・。
後方に自由の女神像が・・・バッテリーパークにて
今夜は旅の最後の夜となるので、ジャズの夕べを憧れのブルーノートでばっちりと過ごそう・・・。
ガイドは髪の毛を侍風に結んでいる坂本さん。「髪を大事にしてるのね」とはモモの弁。
いつもCDで聞いているスイングジャズの本物のカルテットに逢えて今日も夢のような素敵な夜だった。
終わって人の波に押されて外に出た途端、ヨーコが 「ヒロコがオトコにさらわれた!大変だッ!」
と真顔でモモに叫んでいる。わたしが隣にちゃんといるというのに・・・。
ソバージュの後姿で勘違いしたらしい。その夜の興奮のなせるわざ、と後でお腹が痛くなるほどみんなで
繰り返し、繰り返し、笑った。
かくしてNYの最後の夜はキラキラと更けていったのだった。
タケ母さんは冷房の効きすぎで寒くて坂本さんから借りた背広を着てる・・・。 ブルーノートにて
8 いよよ 華やぐ命なりけれ
6月 26日ホテルの売店でカップラーメンを買ってきて1ドルの朝食。いままでとは何たる格差!
敬城さんが迎えに来てくれてチェックアウトが9時30分。車でケネディ空港へと向かう。
おりしも一路帰国の途につく4人に別れの涙の雨が降り出した。車の窓ガラスに雨で滲んだNYが映っている。
楽しかった1週間、ありがとう、アメリカ・・・・・。
出発は14時10分、東京成田へは27日の夕方到着の予定。機内食にはおそばやお寿司が出るが、食べた後は
眠りっぱなし。寝たり起きたりの14時間20分で成田に無事に着陸した。
ケネディ空港の4人
左からモモ、ヒロコ、タケ母さん、ヨーコ。もっと遊んでいたいねといいながら、一路日本へ・・・・。
本当に優雅で幸せな日々だった。ホテルでタケ母さんが留守番なんかしないで、全員がいつも一緒だったことも
なによりだった。そして飛行機が成田に無事に到着したとき「暗い中を道もないのによく間違えないで日本に
着いたこと!」と本気で感心していたタケ母さん。
本当にありがとう。4人の夢の旅はこのタケ母さんの言葉で締めくくられたのだった。
めでたし、めでたし。
6月が近づくとあのトキメキの旅の母の姿を思い出す。
「いよよ華やぐ命なりけれ」と希いつつ・・・・・。
アメリカ大陸をジグザグに4人で横断した。すごい!二ツ井に感謝! 旅でお世話になったかたがたです。
あ と が き
秋田の響画廊の個展会場へほんこの会の吉田朗さんが見えられて「ルバイヤット」の会にご一緒した。
そこで母の「恋文」の話がでて「其の思い出の旅を本にしたら」とすすめてくださった。
1975年ほんこの会刊の豆本、叔父・柳原久之助の友人、近藤兵雄さんの豆本「淡島神考」の挿絵を
描かせていただいたことがある。夢にも思わなかったことで、不思議なご縁を感じる
これも画廊主の徳永さん、吉田さん、二ツ井町のお陰と心から感謝している。
この旅の翌年の12月、エジプトのナイル河岸をわたしと散歩中、事故にあって従姉の洋子さんが不帰の客と
なった。
夢の中では楽しそうに赤いドレス姿。きっとエジプトの王妃さまの一人に加えられているとわたしは信じている。
この旅の記を、姉とも慕った彼女に捧げたい。
そして「佐吉」というペンネームを持ち、詩を愛した文学青年、生まれて100日目のわたしに文学全集を
買って出征した父、淳之助にこの本を捧げたい。
「恋文」も旅も、きっと父からのプレゼントに違いないと思うから・・・・。
合掌
追記
1999年9月9日にこの本が秋田豆本の会より出版された。
そして其の翌年のこと、NHKの人間ドキュメントの取材を受けた。2年ぶりに秋田の我が家に帰り母が戦地からの
古い手紙の束を取り出したその時ディレクターが1枚の葉書を見つけ私に手渡した。
それは3歳になったばかりのわたしの姿を筆で描いた戦地の父がわたしに送ったたった1枚の葉書だった。
戦時中は書けなかった子供への思い、文面の国という字を私に置き換えると伝わってくるもの。それは暗号の
ようだった。
百日目に出征し三歳になったころ1度だけ父は帰還している。一度は抱っこしてもらったのに、2度目は恥ずかしくて
抱っこしてもらわなかったことを、悔やんでいたわたしだったから、父とも知らずその後いつくるのかと、そして今度は
笑って抱っこされなくてはとずっと心の中で待っていたのだった。
60年ぶりに届いた父からの葉書。それに描かれている絵を見た瞬間、わたしはわたしの絵の原点を知った。
其の半端でないスケッチを見て、父も絵描きになりたかったのではないかとおもった。
そして絵の勉強のためにと何もかも捨てて上京する時、絵描きの叔父(父の弟)だけが賛成してくれたその意味も。
この時テレビカメラはずっとまわって葉書との出逢いの瞬間を記録していた。
これも文学青年だった父の演出だったのではないかと秘かに思っている。
旅の画帳のおまけです
モモの旅日記 5日間のスケッチブックより 1995年から11年目の初公開!!
たった5日間とは思えないほど充実してた・・・毎日。 旅は最高! 華の一期一会でした。
旅日記の作者モモからメールが届きました
24年後・・・・・・・・2018年9月 百子と私はNYにいました。
恋文のご褒美で母とでかけたNYに娘の百子と24年後再訪できたのは夢のようです。NYで展覧会!!夢は願えば叶う!
きっと母も大喜びしていると思っています。NY CEILM GALLERYにて。
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