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佐藤緋呂子・・・遙かなる道・ある日ある時・・・このはなひろ

2012年3月  中国再訪・・・北京 太原 石家荘 

およそ20年前に母の中国訪問の後。2年後に彼の地へ渡りました。
       母の亡くなった今、父の戦地からの手紙を読んで再びの中国です。        
父が画家ならば、詩人ならばと感嘆した中国の地に画家として立ちます。
その頃は想像だにしなかったことが実現するのです。





 



・・・・私の原点は雪の白

 儚げでしたたか勁 くて優しい真の女性像を求めて 佐藤 緋呂子


日本画のモノクロームの絵は幼いころに見た真っ白な雪原と真冬の黒い夜空、

そこに煌煌と輝く月、この秋田の原風景が私の原点のように思えます。

フランスで個展のお話があった時、

初めて出かけた銀色のパリと雪の白がこのはなさくやの強くて優しい姿に重なり、

この裸婦の絵が生まれました。


高山先生には苦しくても茨の道に手を差し入れる覚悟があるのなら、

人の数倍のデッサンをしなさい。

そして自分を磨き、その自分を描けばいいのだよと、いつも哲学的なお話をされ、

帰り道汗びっしょりだったことが忘れられません。

絵の道は果ての無い旅、今描きたいから描く、自由に純粋に絵の道を進みたい、

暗黙のうちに教えてくれたのは、わたしの叔父、洋画家の柳原久之助でした。

私が子どものころから憧れつづけている女性像は、

もしかして儚げでしたたかな秋田の女性なのかしれません。

夢は遙かです。








秋田ほんこの会刊2005・・・戦後60年・心に残る一つのこと・・・ショートエッセイ集 より


  60年後に届いた父からの葉書・・・佐藤緋呂子

 今でも忘れない。
 3歳の冬、
 両手を広げ恥ずかしそうに『おいで』と
 わたしに云った青年の顔を。

 眼鏡をかけ髭を伸ばしたその人のあぐらで
 身を硬くして抱っこしてもらった。

 次の朝、叔父(柳原久之助)がカメラを構えて待っていたが、
 恥ずかしくて母にしがみついたままの
 1枚の写真が残った。

 おいでと伸ばしたその人の手は
 着物の懐にあって
 悪いことをしたと心がいたんだまま
 今度は笑って抱っこしてもらおうと
 その人の再訪をずっとわたしは心待ちしていたのだった。
  
 60年後、その青年はわたしの生後100日目に出征し
 一時帰還した父だと知った。

 それはNHKのドキュメントの撮影で
 カメラが回っていたその時だった。

 ディレクターの人が古い手紙の束のなかから
 見つけ差し出したのが
 戦地に戻った父からのわたし宛の1枚の葉書だった。

 私的なことを許されなかった時代
 暗号のような文の『国』という字を私に置き換えれば
 まさに父からの熱いメッセージそのものだった。

 そして筆で描かれていたわたしの後姿の
 半端でないスケッチを見た瞬間、
 本当は父も絵描きになりたかったのではないかと思った。

 そしてわたしの絵のルーツは父だったのだと。


   父はあの写真の3ヵ月後中国山西省太源にて戦死しました。
   母は日中国交回復2年後、私はその10数年後にかの地を訪ね、
   父が故郷秋田を偲んだであろう山川に出逢い、そして多分
   父が母の面影を重ねていただろう観音様にも逢ってきました。

                               2005・8


 

 

秋田での佐藤緋呂子展を終えて・・・

わたしの原点の色は雪の白、そして生まれてきた絵たちに、わたしを育ててくれた秋田の雪を見せてあげたいと
思ったばかりに、雪の大歓迎を受けてしまい88年ぶりの大雪となってしまいました。ありがとう、もうわかったから、
もういいから、と空に向かって何度云ったことか・・・。

 それでも大勢の人が雪を掻き分けかき分け観に来て下さって感謝感激の日々でした。みなさまの熱い心に
心よりお礼を申し上げます。たくさんのハートに囲まれて幸せな1週間でした。本当に有難うございました。


 小さい時からつよくて優しいコノハナサクヤに憧れ毎日のように、ああでもない、こうでもないと、描いていたことを
思うと、今もその続きをしているのかもしれない・・・と思っています。

 人物を描くのには基礎の裸婦デッサンが必要と秋田で先生をしていた頃は毎月一回、明大前のデッサン研究所に
夜行で行き 夜行で帰り月曜の朝学校に直行するのが常でした。(裸婦のモデルさんが秋田にはいなかったのです。)

 その頃から高山辰雄先生の絵に衝撃を受け、いつか先生の門をたたこうと心に決めていました。その数年後幸運にも
先生との出逢いが待っていて小型車にありったけの絵を積んで先生のアトリエに向かったのでした。

 白のトックリのセーターの先生は絵の一つ一つに、君がいる、いない、とそれだけおっしゃって。

 先生は苦しくても茨の道に手を差し入れる覚悟があるのなら、人の数倍のデッサンをしなさい。そして自分を磨き、
その自分を描けばいいのだよと。哲学的なお話に、帰り道汗びっしょりだったことが忘れられません。

 今描きたいから,好きだから描く、時には他事多難の障害があってもいつかは、と心に誓い、会には属さず、自由に
純粋に絵の道を進みたい 暗黙のうちにそれを教えてくれたのは、わたしの叔父、洋画家の柳原久之助でした。

 海外の個展も自由人であるがための実現です。

 時には意にそわない絵も描かなくてはならない職業画家にはなれないと思っていたので、好きな道・・・ジャーナリスト
かな・・を職業に、 好きな絵を描き続けられたらとおもっていました。(ほとんどの人は先生をしながら・・・)

 上京してすぐ山本夏彦の編集室に入り、校正に入る前の暇な土曜日にクロッキー研究所などに通いはじめ、そこでは
色々の人の出逢いが待っていました。

 そのうち絵はわたしの精神的な支え、生きるための呼吸のようなものになり、くじけそうなわたしは絵を描くことで何度も
救われたのです。そして絵の道はこれでいいということはなく、果ての無い旅のようなものと思うようになりました。

 夢は遙かです。

 今、秋田の個展で大きい杭を打ちここまで歩いたきた印とし、又この道を歩いて行こうと思います。あせらず、ゆっくりと
道草を食いながら・・・。

 夢はつよくて優しい、そして魅惑的な女性、わたしの内と外に住む女性に出逢いたい。もしかして本当の自分に
出逢う旅なのかもしれないとおもいながら・・・。



     2006年 1月28日  絵描きになろうなどと考えもせず、今を描き続け、振り返ると絵の道がついていた日






      遙かなる夢    佐藤緋呂子展 2006

     ・・勁くて優しい女性像を求めて・・・ 秋田展によせて

 

まだ字が読めない子供の頃 大人を追い掛け回して何度も読んでもらった古事記。

そのなかの このはなさくやひめ のお話に心をときめかせ どんな人かしらと毎日

飽かずに描いていた。幼稚園の先生にこの人は誰?ときかれても長い名前は覚えきらず

答えられないもどかしさ・・・。

 

 そしていまも そのつづきをしているのかもしれないと このごろ思う。

 調布市でしていただいた20年ぐらいの振り返り展を、

ちょうど絵を描いてから50年にもなろうとしている2006年1月

 故郷秋田でも開くことができる幸せに感謝の念で一杯です。

 

 雪の白はわたしの原点の色

 わたしが描いてきた絵にもわたしのふるさとをみてもらいたいと展覧会にあえてこの雪の季節を選びました。

 お世話になった方がた 大勢の皆様にお逢いしたいと思っています。 

秋田に生まれたわたしを育ててくれた秋田の山や川 

そして出逢った人たちに感謝をこめて。

                                 

    【佐藤緋呂子プロフィール】50周年記念

                       記念パーテイーでアドブレーンの 渡辺 知 さんが作ってくれたものより・・・

秋田で個展開催!

いつのまにか
50周年のこの年、ふるさと秋田での個展開催はまるで夢のようです。

 海外も含め、
37回目の個展になりますが、振り返ってみるとよくここまでこれたな〜

というのが実感です。

走馬灯のように浮かぶ思い出のシーンに、すべては皆さまの支えがあったからこそと、

心から感謝を申し上げたいと思います。

 昭和12年、生まれて100日目に戦地へ行った父・柳原淳之助が3年ぶりに一時帰国。
前日にひざに抱っこしてもらったのに、その日は恥ずかしくて抱っこしてもらわず、
差し出した父の手は袖の中だったことをずっと悔やんでいました。

洋画家の叔父・柳原久之助
(やなぎはら・きゅうのすけ)が撮ってくれた親子3人の貴重な
1枚です。  この3ヵ月後に父は戦死しました。

  

 絵の好きなヒサお祖母ちゃんのひざの上です。
お祖母ちゃんが描いた姉様人形の絵をわざわざ買い求めに来る人もいたそうです。

 東北でもいち早く大きな印刷所を経営した祖父・庭之助(ていのすけ)と裏の築山
(ちくやま)でのひとコマです。100人ぐらいの職工さんたちが先端の印刷の仕事に情熱を
傾けていました。
女性も専門職を与えられキャリアウーマンのはしりだったようです。

 優しくて信仰心の厚い祖父母宅の離れにはお稲荷さんが祭られていました。
よくこの庭で遊んでいましたが一度も叱られた記憶がありません。

          



 読んでもらった「この花咲くや姫」の絵を幼稚園時代に毎日描いて築山小学校入学・
泰平
(たいへい)中学校、秋田北高等学校とすすみ、北高では叔父の柳原久之助が絵の先生
だったのに授業はとらず、秋田大学学芸学部小学校課程入学。

 当時小学校課程では副免制度があって児童心理研究室に入るつもりだったのですが、
その手前の美術研究室に叔父のアトリエに似た不思議な空気を感じてしまい入室。

(この部屋に未来永劫苦楽を共にする人がいようとは神のみぞ知る!)
日本画との出逢いはこの
2年後でした。

卒業後、秋田市立下浜小学校に奉職。人物の勉強は裸婦のデッサンが必至と毎月東京の
明大前のクロッキー教室に通いました。
そして
3年後に上京、山本夏彦編集室に勤務し2年後佐藤恭司と結婚。

このスナップは親子で京都へ旅行した時のもので、長男・将之と長女の百子です。


  

   住友ビル日本画大賞展会場です。この時吃驚するような賞をいただきました。

   秋田亀田城です。夏休みに里帰りした時のもの。





  
 

 夏はいつも秋の制作で暑いなどと言っていられないぐらい制作に集中しなくて
はなりません。
後にバリアがあって近づけなかったと話す息子がカメラマンでした。

 子供たちが小学校時代の5年ほど、秋田で暮らしていました。
その頃出逢った友だちは私の生涯の宝で、今もお付き合いが続いています。

お茶も習っていてこれが海外の個展の際に大いに役立っています。






 

 京王デパート第1回個展会場でのひとコマ。

 同じ会場で。秋田でお世話になった富永さんを迎えて。


 個展開催時には母タケがよく秋田から上京してくれました。

    今回は 従姉の石崎あやさんと桜庭豊子さんも一緒に




 上野の森絵画大賞展・秀作展、箱根美術館。

                        横山津恵先生主宰の「恵花会」の皆さんと先生を囲んでの記念写真です。






 初めての海外での個展がイスタンブールでした。ジャパンフエスティバル・
オープニングには当時の首相・海部さんも国の代表で参加しました。
レセプシヨン会場でトルコの方たちと歓談?のひとコマ。




 着物は従姉の加賀友禅の作家・中町朱美ちゃんの作品です。
3枚も素敵な着物を貸してくれて毎日着替えて日本の文化・着物をアピールしました。

 イスタンブールのトプカプ宮殿前です。東西文化の交流・シルクロードを再発見
しました。この頃アド・ブレーンの渡辺知さんと出会い交流が始まりました。






 二ツ井町主催の「きみまち恋文コンテスト」で母の恋文が大賞をいただきました。
アメリカ・アイオワ州マヂソン郡を経てニューヨークへ。
街で見かけた映画「マヂソン郡の橋」のポスターの前で。

           





 青山アートスペース・ギャラリーです。個展の度に毎回必ずいらしてくださった
秋田魁新報社・記者時代の遠藤欽一さんといっしょです。



 日展初入選。都美術館の前です。高山辰雄先生が「とうとうやりましたね」と喜んで
くださったお声が今でも胸の底に残っています。


                                           お祝いのお席・若葉の灯茶会・森可照邸にて・瀧廣明先生と

 調布での個展会場。

   理科大・映画部の学生さんたちが花束を抱えお祝いに来てくれました。
  このなかから未来の
影像の世界を担う人たちが生まれ活躍中です。




 京王デパート個展会場です。

    






 フランス・オルレアン展オープニングのレセプションで市長さんから感謝状を
いただきました。

 
     

     

 オルレアンの少女の家の近くで。          同じく、プチホテルの前で。

 会場にいらしてくれたフランス人のご一家といっしょです。

 個展会場に毎日通った道。見知らぬフランスの方に撮っていただきました。







 パリのピカソ美術館への道で。







 わたしのパートナーの佐藤恭司がヨーロッパから持ち込んだニュースポーツ
「バーンゴルフ」。
私も協会の会員で、横浜の公認コースで大会に参加、ホールインワンを出した
嬉しい日でした。



 「バーンゴルフ」の世界選手権大会にはいつも同行して選手の応援をしながら、
スケッチにも精を出していました。歩きながらでも描いたスケッチブックの
おかげで魁発行の「郷
kyo」の“異国素描”連載につながりました。
大会の合間の散策。ドイツ・バドムンダーにて。





 2006年のの世界大会レセプションは世界遺産の修道院でのワインパーティーでした。
市長さんのご招待で、世界各国の方々と国際交流、ここでも浴衣で日本をアピールして・・。

             

               「バーンゴルフ」世界選手権大会シュタイア会場風景。
                       オーストリア・



 調布市主催の個展会場です。秋田からも恩師や友人が大勢駆けつけてくれ感激の展覧会でした

この時、初めてこれまでの自分を振り返るチャンスに恵まれた気がします。
資料の多さに挫折しかかりましたが、やっとすこし整理がつき、また新たな
出発のきっかけとなりました。感謝です。



 2005年2月、日中交流絵画展に出品しました。紙吹雪の中、オープニングのテープを
切りました。真ん中が桂林の市長さん。一人置いて私です。こんな瞬間を撮ってくれた方に感謝。

             

 郷愁を感じる旋律と演奏、日本のルーツかもしれません。レセプション会場です。

 2005年4月、日本テレビで放映された92歳の母(柳原タケ)との1シーンです。
桜が満開で心に残る
1日を過ごすことができました。
調布市にある都立神代植物公園で。






 2005年6月、上野の森絵画大賞展入選。時間が取れなく見られなかった
百子と全国巡回展先の福岡まで出かけました。福岡市美術館展覧会場です。

  
娘と二人旅・絵を描いててよかったと思う瞬間。



 NHKの番組の収録中に見つかった3歳のわたしに宛てた父からの手紙。
 60年あまりの時を経て手許に届きました。

   
 

 3歳の娘の姿が描かれていた葉書をみて、わたしの絵のルーツは父親だったことが
わかった瞬間でした。
父も絵の道に進みたかったのかもしれません。

美術研究室の扉の前で背中を押してくれていたのは父だったのです。


「 ひろこの今までとこれからに乾杯!皆さんに感謝します。」 Kyoji

    


     これからも助け合ってしっかりと楽しみながら歩いていきましょう!! 
      健康に気をつけて・・・・。(「タバコのすいすぎには充分ご注意を!! )


           
 佐藤緋呂子展2006・・・秋田アトリオン  (今思えば50周年記念展でした)

会場入り口
宮下先生からいただいた写真です   会場にて

 

好きな絵が描きたいだけで、絵描きにはならないと思っていた私ですが、いつの間にか
絵を描くことが生きること、私の人生そのものになっていたのです。
雲の上の父はさぞやのんびりの私にやきもきしてたことでしょう・・・)

絵は描く人に似るとよく言われますが、私の師、高山辰雄先生は「自分を描けばいいんだよ」
とよく話されていました。品性も人間性の豊かさもすべて絵に表れるもの、
自分を磨かなければいい絵が描けない・・そんな思いで精進してきました。

でも、それはこれでいいということはない終わりのない道、夢は遙かです。

                展覧会を終えて   2006・3




 恋力(恋は生きる力) ・・母タケさんのこのごろ・・

何度目の入院だったろうか、少しずつ弱っていく母をみて、
もう91歳だから仕方がない・・・と諦めかけていた。

手術の可能性がありますと承諾書にはんこまで押して、覚悟もした。
病名は腸閉塞。

「思い切っておならしてみて!」「そんなはしたない・・・」などと会話しながらも
ベットごと運ばれた母だった。

ところが運よく針金ほどの開通を見たのか、手術は見送られた。が39度以上の高熱が続く・・・。

3日目の朝、母は脇の下の冷たい塊を見てこれなんだ?といいながら目を覚ました。
熱は下がっていたが、そこにいたのは生まれ育った秋田・土崎言葉に戻った10歳ぐらいの
母だった。名前も旧姓の石崎ですと。

救急車で運ばれ酸素マスクをつけ点滴を受けラーメン状態だったこともすっかり忘れ、
日増しに元気になる母はわたしが見舞いに行くと、お墓参りに行かねばと土崎の両親のことを
気にしたりしている。

そして一ヶ月が過ぎたころ、併設されているリハビリのできる老健施設に運よく入所
させてもらうことになった。2階(病院)から3階(老健)へ。これが母の第二の人生のはじまりだった。
それもいよよ華やぐ人生の・・・。

朝のリハビリ体操から始まって、歌の時間・お絵かき・習字・紙粘土細工・詩吟・俳句

そしてお仕事といってナプキンたたみ・・・等等。スケジュールがいっぱいなのだが
、職員に誘われると家の者に相談してからというらしい・・・月謝が要ると思っているので
佐藤のはんこを押した月謝袋を持たせた。

それから母は安心していろいろのサークルに参加し始め「男女共学なの!・・・」と
とても嬉しそうに報告するようになった。

入所して何度目かの訪問のとき、一人の男性に寄り添う母の姿を発見した。

「土崎生まれの人ですよ・・・」と母にKさんを紹介された、がその男性、僕は
横須賀生まれです、と。しかし土崎生まれと思い込んでいる母の耳には届かない・・・。

いつも一人で読書をしている男性がいたことは知っていたが、それ以来行くたびに
この会話のやり取りから始まり、私を「娘です」、と付け加えることも忘れない母だった。

 

しりとり・かるた・なぞなぞ・・スタッフ無しの自主サークルがこの男性中心に始まって、
この会に入ることが入所中のおば様たちの憧れとなり、お隣の席に座ることなどはまた
夢のような時間だった。
新参者だったのにもかかわらず年長組?(91歳)だし退院したばかりということで、いつもkさんの
となりの席を譲られて楽しい毎日が始まった。

初体験ということもあってか(母の記憶はみんなバックしていて、最近のことは全て忘れてしまっていた・・・)
目の前のカルタを取るのにKさんが手をすっと添えてくれたり、周りのおば様たちも
母がカルタをやっと取り押さえると、「よかったね〜」と喜んでくれてみんな寛容で優しい。

運よくカルタとりの最中に訪問したりすると、20人ほどの輪に聞こえるように
私も読み手にまわる。
「犬も歩けば棒に当たる・・・。」(ここのところこんな大声だしてなかったな〜。
などと思いながら私も初体験している・・・)そしてしりとりが始まりわたしも仲間入り。しりとりで
詰まると助っ人のおば様たちがわれさきにと教えてくれる・・・とてもいい空気が流れる。。

また来てね〜とおば様たちに合唱されて、なつかしくも楽しい時間を共有しての帰り際、老健施設が
気に入ってしまった母は、「ここのお風呂は温泉だし、ベットもあるし、食事は何とか
するから泊っていけば?」と母はいつも薦めてくれる。。
病院の流動食から見れば少し形がある食事は豪華に映るらしく、食事もいいしとつけ加えることも忘れない。

3ヶ月しか入所は認められないのに近くなると知ってか知らずか、少し体調を崩して
入退院を繰り返して2階(病院)から3階(老健)に移動の2年間、母はここで精神年齢をどんどん成長
させていった。

車椅子で東京タワーに遠足に行き、帰りナラヤマによっていくかな〜・・・などという
母も留守番のKさんへのお土産はしっかり買って帰る・・・(そのために行ったようなもの?!。)

消灯までの時間をKさんがいるというだけで食堂で時を過ごし、不良少女軍団の仲間入り
もしていた。

ある日、母が入浴中というので待つ間のおしゃべりで、Kさんは私と同年齢ということが
判明した。ヤット女学生ぐらいに成長していた母に早速耳打ちしたら、
「そんなにKさんって歳取ってるの!?」

竹久夢二とも知らず流行のぬりえにも興味を示し廊下に張り出されたのを見て、
みんなが真似してるのと。リーダーシップがでてきたこの頃から、すればするほど効果が
上がるのでKさんも面白くなってきたのか、一人特訓でパズルにも挑戦させてくれるようになった。
90歳代でこんなに効果のある人もいないとKさんも張り切っている。

計算も100−7は?。それからまた7を引いて・・・。ずばり答える。私も負けた!。

漢字のパズルもどんどんできるようになった。

11月の末、病気する前よりも若返った母を見て、そろそろ退所の時期が来たことを感じた。
というのもKさんもいつまでもはここに居られないと思うし、もし居なくなった時のことを思えば
退所するのは先がいいとおもっていたので、母に「家に帰る?」と恐る恐る聞いてみた。
なんとその答えは、「ちょうどよかった。そろそろ飽きてきていたの・・・」と。
もう立派に成人した母がいた。

退所する日をKさんに告げる、と偶然なのか、母の退所の次の日に特養ホームに移るのが
決まったのだとか。何の打ち合わせもしてなかったのに。不思議。

 

退所して二ヶ月が過ぎた。家が狭いこともあるが、もともと歩けないなどとは思ってもいない
から、2年間の車椅子生活などは信じられないほど、つかまりながら家の中は歩けるようになって
いった。

そして近くのデイサービスにも通うようになった。こじんまりしているのでよそのお宅に遊びに
行ってると思っているので「お風呂とお昼とおやつをご馳走になるの・・。」と、
帰ってくると楽しそうにその日の出来事を話してくれる。

病気する前よりもずっとずっと元気で若返った母。細胞のひとつひとつに活力を与えられて
前向きになった母。いくつになっても恋は生きる力の源になるのかもしれない。

 

そして母はもうすぐ94歳の春を迎える。

      2007・1・29





   
  追記   美海ちゃんの曾祖母になった母はこの2月には96歳 
  
          ますます元気で最近は俳句などひねっています・・・。

                  2009年1月20日





    春の日差しの中の散歩  うん十年前のタケ母さんと私です・・・。

         

       戦地の父に私の祖母が送った写真の中の1枚です。
       写真の裏にはこう書いてありました。

     アンヨが嬉しいです。そしてとても上手です。オテテつないでどこまでも・・・
     凱旋をお迎えする練習です。

     この5月 中国で父は戦死。凱旋の願いは叶いませんでした。

                         



    2007年3月9日    誕生日

 
   いくつになってもお祝いされたら嬉しいのが誕生日。

   それが思いがけない人からであればなおのこと。

お風呂場に隠してあった花束は橙色の薔薇と白いフリージャ。

 生まれて初めて花屋さんに買い物に行って、 カラフルな花束を見つけたので、これにリボンを、とお願いした。

 お店の人は、それは仏様用です。と。死ぬほど恥ずかしかったけれど思い切って買ったのがこの花束。

 持って帰るときも恥ずかしかったらしいけど。

          



 送り主がいなくなった時、橙色の薔薇を見るたびにわたしは泣くだろうな〜。

 でも、もし私が先だったら、ほんとに仏花を買ってくるのでしょうね〜。







Y先生に最後にお目にかかったのはわたしの個展の報告に成城のご自宅に伺ったときでした。

・・・になりましたといったわたしにしみじみと

「おばあさんになったのですね〜。」と


これが最後に交わした会話でした。思えば30台半ば過ぎ奥様のお口添えで

作品を見ていただいてから35年もの月日がたっていました。


その奥様がご病気でそしてわたしの母もその頃介護で大変だった時期

お互いがんばりましょうと別れ際に握手をして励ましてくれたことがありました。

おかげさまで力をいただきましたというわたしに

先生はこちらこそパワーをいただきましたと

たった1度の大切な瞬間でした



日本画の手ほどきをしてくれたY先生が1月

そしてT 先生がこの9月その使命を終えられたかのように天に帰られました


いただいた大きなもの、はかりしれなく大きなものを

しっかりと抱いてこれからも歩いていきたいと思っています




   秋田ヴァレリアーノ 夢遥か展 2008     7月22日 一夜展

 今宵 ヴァレリアーノにて こんな素敵な展覧会を開かせていただいて

素敵な皆様にもお会いできて
夢見ごこちとはまさにこんな気持ちのことを言うのでしょうね。

さて私のほかに7人の女性、絵の中におりますけれどお招きいただきました。

逢っていただけましたでしょうか。

 なぜこんなに女性を、勁くて優しい女性を描き続けることになったのか、

すこしお話させてください。

それは幼稚園のときでした。

洋画家の叔父が(柳原久之助)私の父の弟になりますが、隣にアトリエを構えておりました。

そのアトリエは築地のほうから引きやで運んだものだったようです。

おしゃれな家のことをアトリエというものだとその頃は思っていました。

わたしは毎日のように遊びにいってました。

絵描きさんは勿論のこと、音楽家や文学をめざす方などいろんな方が集まってきていました。

 ある日文学志望の青年が私に 「これヒロコちゃんにあげる」

 と上下2冊の分厚い本をくださったのです。

 ピンク色の表紙のその本は「古事記」。子供向けに易しく

その方が書き下ろしたものでした。

ところが未だ字が読めない私。大人を追い掛け回して呼んでもらったのですが、

その中でこのお話が私の心をつかんで離さなかったのです。

それはこんなお話でした。・・・・・・・・このはなさくやひめのおはなし・・・・・・

  というわけで今もその続きをしているのではないかと思っています。

それはとりもなおさず、勁くて優しい・儚げでしたたか・ダイナミックかつ繊細・

不埒さと真面目さなど私のとって絵の本質そのものだったのです。

それはまた全てのものにるも通じます。

さて今日は学生の頃から好きで聞いていたモダンジャズの中から

ブルーに関する曲を演奏してくださることになっています。

あの頃はダンモといってましたが、この曲を聴くと一気に青春時代に

戻ってしまいます。・・・

リハーサルのときに聴かせていただいて

もうウルっときてました

音楽は一気にその時代に戻れる力を持っているのですね。



ティータイム

おいしい紅茶とケーキで素敵な時間でした

 

デビューしたての国府弘子さんとはヨガ友でした。

トルコに行って帰ってきてから作曲したブルーモスクの曲を聴いて私もいつか

訪ねたいなと憧れました。

その数年後、1994年トルコ・イスタンブールのフェステイバルに日本画で参加

のお誘いが、それも個展のお話が舞い込んできました。

夢物語としか思えませんでしたが、

トルコ大使館の歓迎会に招かれそれがほんとのことだと知ったと
 
き本当に吃驚いたしました。本当に運です。

セントラル美術館日本画大賞展に出品していた 不失花 を見てくださった方が

推薦してくださっていたのです。

 月と花と女性、月のような女性というとトルコでは最高のほめ言葉なのです。

 私のとってこの作品はまさにミューズです。裸婦が多いのですがと私の質問に

トルコは政治宗教芸術全て独立の存在、

素敵な裸婦を沢山見せてくださいとトルコ大使のギュルレ氏。

  それからまだ見ぬトルコへの思いブルーの絵を描き上げました。

トプカピ宮殿でオープニング、
   
  そのときトルコの人がこういいました。
 

  私たちは兄弟。昔中央アジアで暮らしていたが、

砂漠化が進んで東と西に分かれていった。

  でも又今ここで会いましたねと抱きしめてくれました。

  会場ではこんな出会いもありました。

 毎日通ってきてくださったスルタンのような叔父様。

あなたによって本当のブルーの美しさを知りました。と。

又青い空に浮かんだ月と星をバックに立つ少女の絵に、

これは私ですと涙ぐんでいた医学生の女の子、

国は違ってもわかりあえる素晴らしさ、絵は万国共通の言葉でした。

思い出のブルーにちなんだ曲の演奏で今宵はヴァレリアーノを飾っていただきました。

 

北嶋社長様に心から感謝申し上げます。

        2008年7月6日







振り返れば一筋の道 これからも歩き続けます

佐藤 緋呂子

                                     作品幻遥のまえで

 

まだ字も読めない幼い頃、

洋画家の叔父のアトリエによく遊びに来ていた文学志望の

青年から桃色の表紙の一冊の本をいただいた。

それは子供向けに書かれた古事記。読んでもらったその中にわたしの心魅かれた強くて

優しい木之花開耶姫のお話があった。

挿絵が無かったので、どんな人かしらと毎日ああでもないこうでもないと描き続けた。

飽きることなく毎日毎日描いているので、幼稚園の先生がこの人は誰なのと聞く。

でも子供のわたしには答えられない長い名前だった。

そしてそれから何十年、私は答えがみつからないまま、

未だにその続きをしているような気がしている。

 

秋田大学学芸学部に入学した時は一部乙類、

二年後に副免の為に専門の教科を選ぶことになっていた。

思えば緩やかな制度で、わたしの様にゆっくりと漠然としか

将来の夢が定まらなかった人間にはぴったりのもので、今でも感謝をしている。

小学校課程ではほとんどの人が児童心理学研究室に所属するのが

普通のコースだった様に思う。

私もそのつもりで皆とその研究室に向かった。

ところがその時、その手前の研究室の扉が開いていて、

叔父のアトリエと同じ匂いの不思議な空気が流れていた。

引き寄せられるように、私はその部屋に入ってしまった。

そこが私と美術との最初の出会いの場所、美術研究室だった。

 

叔父が自宅のアトリエで絵を描いているとき

張りつめた緊張のバリアの様なものが張られ、

いつもの叔父の柔らかいウイットのある雰囲気は全くなく、

よほど厳しく辛いことをしているのだなと幼い私は思い、

絵描きにだけはなるまいと誓っていた。

後年、家の子供たちに、何か話したくてもバリアがあって

出来なかったと云われた。(ごめんなさいね)

秋田北高校に入った時も叔父が絵の先生だったが、

絵画の時間も選択で漢文を取るなど、

絵の道に進むなど露ほども考えたことも無いわたしだった。

それが卒業制作は日本画でと、何かに導かれるように、

横山津恵先生に教を請うことになった。

私の大叔母様は絵が好きで、秋田に居た頃の寺崎廣業のお弟子さんだったとか。

だからこれも大きな御縁の出会いと思っている。

 

卒業後下浜小学校に奉職。

クラスは勿論のこと全学年の絵の授業も担当することになった。

人に教えるということは自分も常に上を目指していかなくてはならない。

秋田にはプロのモデルさんがいなかった。

基礎はやはりデッサンとクロッキーなので月に一回、

東京の裸婦クロッキー研究所に通うことにした。

土曜日に夜行で行き、月曜日の朝下浜小学校に直行。

その内に本気で絵の道に進む決意の様なものが生まれはじめ、

やむにやまれぬ生涯最大の我がままで、

二十四の瞳よろしく子どもたちに別れを告げることになる。

これも若気の至りで、今では到底許されるわけもない、考えられない行動だった。

 

「先生を許します」と何回目かのクラス会に呼ばれ、

大人になった生徒たちに許してもらった時は、

肩の荷がおりたように心から、嬉しかったことを覚えている。

 

そして東京では高山辰雄先生に出会う。

奥様のお口添えで絵を見ていただくチャンスが来た。

トラックに絵を積んで持って行きありったけの絵を応接室に並べて、待つ。

白いとっくりセーターの先生が、絵の前でこれには君がいる、いない・・と。

絵のことであればいつでもいらっしゃいと夢の様なお言葉をいただき、

絵の下図が出来るとみていただくのだが、いつもおっしゃる先生の言葉は、

「常に自分をみがきなさい。そしてそれを描けばいいのだよ」と。

 

先生はゴーギャンに深く心酔していらした。

私も命はどこから来て、何処へ行くのかと云うゴーギャンの言葉に憧れ、

目に見えない風や匂い、そして命や愛を目に見える物に託して表現したいと思っていた。

先日の秋田での個展の際に、ドイツからの留学生の女性二人が話していた。

「私の国にもこのような絵を描く人がいますよ・・・。」

「誰ですか」と私。「ゴーギャンと云います。」

頭の先からつま先まで光が突き抜けたような気がし、鳥肌がたった。

 

母が八十歳で描いた恋文(天国のあなたへ)が、

二ツ井町主催の日本一心のこもった恋文で大賞をいただいたのは今から十五年も前になる。

軽い脳梗塞の後遺症でリハビリの為に鉛筆が持てた喜びで

描いた恋文は二十七歳で戦死した夫へあてたもの。

「なんてかいたの?」と私。「恥ずかしくて言えない。」と母。

それが大賞にえらばれて、副賞のアメリカの旅までいただき、

母との忘れられない思い出まで出来た。

応募作の中で一番短く、うまく書こうとか人がどう思うとか何にも気にしない、

素直で素敵な文章は迫力があったらしい。

後にこの珍道中の記を秋田豆ほんこの会より出版していただき、

母との思い出がしっかりと刻み込まれたわたしの掌の宝石になった。


アメリカ・アイオワ州マディソン郡の橋の前にて

それからテレビや雑誌の取材で母の華やぎの人生の幕が上がったのだった。

NHKの人間ドキュメントの収録中で戦地の父からの手紙を

母がとりだしている時だった。

同席していた私の目の前に「これひろこさん宛てですよ」

とディレクタ―さんが一枚の葉書を差し出した。

それは六十年前、三歳の私に宛てた父からのたった一枚の葉書だった。

私情を書けなかった当時のその文章は暗号の様で

国と云う字を私に置き換えれば、

父の気持ちが深く伝わってくる。

そしてその葉書には、

一時帰国の際の瞳に残る私の後ろ姿が淡くスケッチされていた。

その半端でない絵を一目見た時私はすべてがわかった気がした。

父も絵描きになりたかったのではないかと。

文学青年で佐吉と云うペンネームを持った父の思い、

それが美研の扉を開け私の背中を押し、

日本画の道を歩かせたのではなかったのかと。

 

八十五歳になって母は上京し、わたしと一緒に住むようになった。

四十歳で秋田の農業短大に入り資格を得、

戦後県庁で農村の生活改善に情熱を傾けた母は、東京に出張の度、

仕事が終わると銀座や有楽町でわたしとよく遊んだ。

だから東京は大好きな母だった。

ある日、元気な母が高熱を出し三日も続いた時、主治医の先生が

「これで治ったら前よりも丈夫になりますよ。菌が死んでしまいますので・・・。」と。

四日目、熱が下がり母は不治鳥のごとく蘇った。

目をさまして「こごどご?」と。

土崎生まれの母は完全に土崎弁丸出しの子供の様になっていた。

無事退院して介護施設にお世話になることになった。

行くたびに男性に寄りそうように座っている母の姿を発見する。

そのKさんは優しい方で入所している叔母様達の憧れの的。

とても学識豊かで、この方の言うことは入所中の誰もが

なんでも喜んで聞くのだとか。

kさん指導のリハビリは懐かしい歌に始まり習字や絵、

レクリェーションのしりとり、カルタ取り、

はては四字熟語や漢字のパズルなど母はめきめきと上達した。

あっという間に立派な女学生にときめきと共に成長した母がいた。

Kさんのおかげで若々しく華やいで、いよよ華やぐ命なりけり、

そのものだった母。

恋心は体も心も若くする。

この母の恋心に触発されて私が描いた百号の絵の題名は「花恋」と名付けた。


強くて優しい女性を描くとき、その心や思いはその背景に滲む。

女性を描かなくてもその強くて優しい心は絵にしたい。

私はその熱い思いだけを絵に表現するようになった。いわゆる抽象絵画である。

その絵が去年の十一月フランス・ストラスブールとリールの現代アートの会場で

個展の機会を得ることが出来た。大小取合わせて十六点を出品。

シリーズの題名は「東洋の誘惑」。

そして薄紫色の紋付無地に、

櫻の花びらを自分で描いた母の形見の着物を会場で着た。


今まで強くて優しい女性を探し求め、描きつづけて来たが、

此の頃ふと思う。探し続けた人は本当は私の身近に居たのではないか。

それは母であり私の二人の娘の様な気がしてならない。


フランス・リール 現代アート個展DM

               平成二十三年五月十一日 記


 
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