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ゆめたがい F100
「秋田の春夏秋冬はリズム、風景はメロディー。それらがハーモニーとなってすべてが私の中に溶けこんでいる」。
絵を描く原点には、秋田の色と風景がある。そして、人生を絵の道へと導いた運命的な出合いがある。
「絵描きになろうとは思っていなかった。絵が好きで夢中で描いていたら、一本の絵の道になっていた」
洋画家の柳原久之助は叔父。叔父のアトリエ、バイオリンや洋楽のレコードや翻訳物の蔵書、それらはすべて
「幼いころの私にとって、未知なる世界の秘密の扉」だったという。叔父の絵のモデルをしながら聞くクラシック。
小学生のころは、戦後の傷あと深く、食べ物さえない時代で、読む本も少なかったが、ひそかに愛読していた
『スクリーン』や『新青年』などから海外の自由な風を感じて少女時代を送る。
祖父は、明治45年に、東北では初のオフセット印刷ができる印刷所を秋田市楢山に創業。たくさんの従業員が
働く広い敷地の中でも、母屋の離れにあった池のある築山が遊び場だった。製本所では、貴重な紙の切れ端を
もらっては、クレヨンで絵を描いていた。父親は、生後100日目に出征。3年後、中国で戦死した。戦死する2カ月前
、一時帰還した父に、父とは知らずにかたくなって接してしまった。以来、笑って父に抱っこしてもらわなかったことを
後悔する。父の弟である叔父を慕う一方、絵を描いているときの近づきがたい雰囲気に「大変な仕事のようだから
画家にだけはなるまい」と幼少時代は考えていた。
幼稚園のとき、叔父のアトリエに集まる文学仲間の青年から、分厚いピンクの表紙でできた手作りの『古事記』の
本をもらう。「まだ字の読めない幼稚園のころなので、字の読める人をつかまえては少しずつ読んでもらっていた」。
その中で衝撃を受けた話が「コノハナサクヤヒメ」の物語だった。
―美しいコノハナサクヤヒメに一目ぼれした神、ニニギノミコト。やがてサクヤヒメはニニギノミコトと結婚して
身ごもるが、一夜にしてできた子を、夫は別の神の子だと疑った。これに対してサクヤヒメは言い放つ。
「この子はあなたの子。私の言っていることが真実である証として、火の中でも無事に子を産んでみせましょう」。
そして自ら産屋に火を放ち、無事に出産する。
「なんのことか意味は分からなくても神様が一目ぼれした女の人はどんなに美しい人なのか、火の中でとは
なんて強い女性だろうと衝撃を受けた」。本の中に挿絵がなかったことを幸いに、来る日も来る日も、
サクヤヒメを描き続けた。「強くて優しく美しいサクヤヒメとは一体どんな人なのだろう」と。
中学、高校時代は、ジャーナリストを目指し、取材に駆け回る日々。叔父が高校で絵を教えていたが、
絵とは無縁の学園生活を送っていた。ところが、大学では、通りがかりの美術研究室に叔父のアトリエに
似た雰囲気を感じ、衝撃を受けて入室。「なぜ、あの部室に突然入ったのかは分からなかった」という。
研究室では、横山津恵先生にめぐり合い、日本画に本格的に取り組むことになる。
大学卒業後は、下浜小学校で教職に就く。その間、月に1度、裸婦デッサンを描くため東京に通い、
3年後に上京。日本画家高山辰雄先生に、やっとの許可を得て小型トラック1台分の絵を持ち込んだのは
、結婚して子どもを2人出産した後だった。「自分の本質を描けばいいのだ」と話す師は、「ふらちな糸と
真面目な糸がより合う、そんな絵を見せてほしい」とも話した。その言葉は、「自分の描きたいものを
描きたいように描くのが画家だ」と話していた叔父の言葉と重なり、今になってよく理解できることだという。
自分の描きたいものを描きたいように描く、画家としての原点にあるのは、秋田の四季と季節が醸し出す
音と風景だ。「つららの溶け出す音、フキの葉に当たる雨だれ。秋田の四季が奏でる音楽、そして、真っ白な
雪原と真冬の夜空、次にやってくる燃え立つ春」。特に、幼いころに見た雪景色は日本画のモノクロームの
世界を語るものだった。「子どものころ、冬の夜に見たのは、雪の白、漆黒の空、銀色にさえる月…。
色も音もない『無』の世界だけれど、存在は『有る』。あの雪景色は、余白を残して美を表現する日本画の
境地を象徴しているかのようだった」
秋田の風景から現在へと続く絵の道。日々、創作に向かう中で、ふと気付いたことがある。
「私は、絵の中に子どものころからあこがれていたサクヤヒメの姿を追い求め、いまだにその続きを
しているのかもしれない」と。それは、絵の中に、優しさと強さをもった真の美しい女性を求める旅。
「本当の自分に出会うための旅なのかもしれない」と話す。
後年になって偶然に、戦地の父が幼き日の自分に送ったはがきを発見した。「はがきには、再会を
願った娘の姿が描かれていた。見た瞬間、父も絵描きになりたかったのではないか思うほど、
半端でない絵があった。大学のときに突然、美術研究室に入ってしまったときも、
素晴らしい師と出会えたことも、いつも背中を押していたのは父だったのかもしれない」
絵の道に、交錯する幼き日の思い出。不思議な出合い。「私は私。ポジティブに自由に絵を描いていく」。そう答える。
自分の絵の道を歩んできた優しい笑顔と、作品に描かれた女性像に、コノハナサクヤヒメの姿が重なってみえた。
さとうひろこ 佐藤緋呂子 日本画家 木の花会主宰
秋田大学学芸学部卒 東京在住
日展 日春展 セントラル日本画大賞展入選 住友ビル日本画大賞展大賞受賞 上野の森美術館絵画大賞展入選
同秀作展出品 臥龍桜日本画大賞展特別賞受賞
個展 秋田アトリオン 響画廊 調布文化会館たづくり 調布画廊 新宿アンファン 他
海外個展 トルコ(イスタンブール) フランス(ディジョン・ オルレアン) ベルギー(ルーバン) 上海 他
グループ展 ぶなの会展 恵花会展 墨絵展 調布美術協会展 平和展 3月の会展 木の花会展
海外展 NY ベルギー ミラノ 桂林 上海 ロスアンジェルス フランス(パリ・ストラスブール・グルノーブル・ニース) インド 他
・・・ 魁 印刷センター記念特集号より・・・ ・・・美で語る 秋田を語る・・・ 魁・TT記
付記
この原稿の取材を受けた日、3月9日はちょうど誕生日であった。調布の文化会館12階のレストランで夜景を
見ながら話を聞いていただいた。
その日インタビュアーの高橋さんからいただいたお祝いの花束を思い出すたび、彼女もこのはなさくやのような
人のように思えてならない。
この頃素敵な女性に出逢うことが多い。そして気がつかないような身近にも 木の花開耶 に重なる女性が存在して
いることを実感している。このはなさくやに私はすでに出逢っていたのだ。
そして私は絵の中で わたしのこのはなさくやに出逢うために 描き続ける・・・・。