hanakoi
花 恋
             佐藤緋呂子の日本画top

父と母そしてわたし、この世に生まれて出逢い、三人が一緒に過ごしたのは百日でした。

そしていま、私たちはここでいつもいっしょです。

私が出逢ったすべての人々に感謝します

 花恋*目次   

        第一章  振り返れば一本の道   佐藤 緋呂子     

 第二章  戦地からの手紙     柳原 淳之助     

       第三章  日本一心こもった恋文    柳原 タケ        

・・・・・・・・・・・・・・・
はじめに

母が九十六歳で天寿を全うし残された二人の遺品の中に、
祖父母が桐の箱に大事に残していた父の
戦地からの手紙がありました

それは家族に宛てた200通余りの葉書と書簡、
文学青年の父らしく実況さながらの臨場感あふれたものでした。
歩哨に立ち、見上げる空の星星、大陸に落ちる夕陽そして昇る太陽に感動し、
詩人ならば画家ならばと故郷に思いをはせて感嘆した父。

手紙の中に私をスケッチした三歳の私宛の一枚の葉書もありました。

初めて手にする父のぬくもり・・・。

そして戦争中の検閲を受けながらも一枚の地図もありました。

急にその地図をたよりに父に逢いに行きたくなりました。
そしてその夢を実現したのが平成二十四年三月。

父と別れて七十年余り後のことでした。

         鄭州から太原まで三千メートル級の山道、父を訪ねて六百キロの旅でした。
       
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 父から届いた一枚の葉書

 

80歳の母が一通の恋文を書きあげた。それがすべての始まりであった。

1999年、秋田、青い空の広がる五月のある日のことだった。

恋文コンテストで大賞をいただき「時の人」になった母が、NHKの人間ドキュメントの取材を受けている時だった。

 その収録のさなかディレクタ―の板垣さんが、同席していた私に、戦地の父から送られてきた古い手紙の束の中から、「これはひろこさん宛てですよ」と一枚の葉書をわたしに差しだした。思ってもいなかったそれは、戦地の父が三歳の私に六十年前に書いて送ったたった一枚の葉書であった。

 私情を書けなかった当時の文章は暗号の様だったが、国という字を私の名に置き換えれば、父が子を思う切ない気持が深く刻みこまれそこに溢れていた。

 そして葉書には、薄墨で描き、淡く色づけされた私の三歳の後ろ姿がスケッチされていた。その半端でない父の絵を見たその時、私の絵のルーツは父だったのだと初めて知った瞬間でもあった。 

それまでは父の弟、洋画家の叔父の影響で絵が好きなのだとばかり思っていた私だったか、テレビ撮影中のカメラのまえということも忘れ、その葉書を驚きと共に胸に抱いた。

その場面はハッキリとテレビに収録されていて放映された。これは佐吉と云うペンネームを持つ文学青年の父の演出に違いないと私はその時確信したのだった。それも六十年目の劇的な待ちに待った特別なシナリオで・・。

 残された一枚の写真

 父淳之助は私が生まれて百日目に召集令状が来て、中国へ出征した。その二年後一度だけ日本に帰還している。それは雪の積もった二月のある日だった。座敷に座って髭を生やしたその人は初めて会うような緊張感もあって、私に少し距離を置いて恥ずかしそうにおいでと云った。

その時、普通のお客さんではないとわたしは不思議に直感し、差し出された手に誘われ、その胡坐の中に身を固くして抱っこされた。

 次の日の朝の雪の晴れ間、外でカメラを構えた叔父が待っていた。

家中をそわそわさせたその凛とした客人は、昨日のようにおいでと私に手を差し伸べた。が、わたしは嬉しかったのに恥ずかしさの方が勝って、母にしがみつき、その懐には入らないままシャッターがおり、一枚の写真が残った。

 その時その人は差し伸べた手を所在なげに着物の袖の中で腕組みをした。その様子を見た時から悪いことをしたとずっと悔やんでいた三歳のわたしだった。

そしてそれ以来、こんど何時訪ねてくるのかなと心待ちし、今度来たその時は喜んで抱っこされようと、ずっとずっとその人を待っていたのだった。

 父であることも知らないまま成人してからも、私の心の奥に、その人はいつも淡い光の中で座って居たのだった。が、その端然とした青年は再び姿を現すことは無かった。

 五歳になって母に連れられて上京した。

皇居の二重橋の前で大勢の兵隊さんが整列していて、その中で一番きりりとした隊長さんらしき人がおいでとわたしに手を差し伸べた。

その時兵隊さんだと云う事だけで、待ちに待ったチャンスが来たと、私はここぞとその人の腕の中へ走りこんだのだった。走りながらこの人は違う人かもしれないと感じながらも、積年の憂鬱から解放されて心が軽くなっていくようだった。

後年、この人こそ後の元帥杉山元その人だったと知る。

 子どもの頃から、父の話は家族の中で語られることは全く無かった。

そのことは未だ語れないほど深い傷のまま、家族の心の中に残っていたからに違いない。淳之助と云う名前も余りハッキリと分からずに、戒名の報国院宣智日淳居士と云う硬い名前でしか父を認識していなかった私。

 楢山には祖父庭之助が明治41年創業の「はかりや印刷所」があった。(戦争中に企業統合され、現秋田協同印刷所)。祖父は秋田印刷協同組合の初代理事長としても活躍していたが、クライアントは東京・大阪はじめ全国。従業員も組合を作るぐらいの大人数で、製本部は女性が活躍し時代の先端をいっていた。

オフセット印刷で映画の広告ポスターや、魁新聞の号外なども手掛けていたらしい。裁断された残りの紙でお風呂を沸かすほどの繁盛ぶりだった。

少し大きめの紙をもらってきては、それに絵を描くのがわたしの楽しみだった。

洋画家の叔父久之助は子供のころ、映画館にポスターを届けるときに見せてもらった外国映画に強く影響されたらしい。後年フランス遊学を目指して絵のほかに語学の勉強もしていた姿が目に焼き付いている。

が、その夢も戦争でついえてしまう・・・。

 

 印刷会社の裏手に家があって、離れには池のある築山の庭があり、赤い花をつけた木の下で、おままごとをしてわたしは近所の子供たちや母とよく遊んでいた。

奥まった八畳間には一間ほどの作りつけの仏壇があって、祖母の読経を最後に屏風の様な扉がパタパタとたたまれて、まるでお寺さんにいるようだった。今思えばこの場所は父の戦死後母である祖母のよりどころだった。

 祖母は熱心な観音経の信奉者で、父の出征中も身延山にお参りに行ったり、寒修行にも大勢の人を従えてよく出かけていた。仏壇の真ん中の大きな写真のこの人が多分父だと思っていたが、極寒の中国での防寒帽をかぶった大きな写真は、わたしにはあまりなじめないものだった。

 父と云う意味もあまりよくわからないまま、どうして父が居ないのかなどと思ったことも無く、絵を描くことが何より好きな、そして丈夫な体にと奨められた習い事、日本舞踊が好きな女の子に私は成長していった。

 小学一年、坊主頭の教生の先生がクラスにやってきた。あの光の中の、又来ると云ったその人なのではともしやと思い、初日にすれ違った階段で、ドキドキしながら目を合わせた。が、先生は「いい子だね。げんき?」と頭をなでてはくれたが、久しぶりとは云わなかった。

あの時の人と違う人なんだと思いながらがっかりし、いまだ不審の一年生の私だった。

 
衝撃の事実は突然に

 それから数十年の月日が流れたある日、親戚のおばさんが何気なく言った言葉に一瞬戸惑いながらも、ひらめくものがあった。

 「ひろ子ちゃんのお父さんは一度帰ってきてるのよね」その一言に身体中に電撃が走り、あのとき訪ねてきて抱っこしてくれたのは、私の父親その人だったのだとその時初めて確信した私だった。

何十年も、私の光のような記憶の一番奥深いところで、その人、父は何時も端然と座っていたのだったから、その思いは果てしなく深く重い。

 昭和12年9月出征。私が生まれて百日目のことだった。

 当時の支那、中国山西省に召集され、14年五月、石家荘にて戦死。遺骨となって母のもとへ帰って来たのは奇しくも二年後の九月だった。その間の戦地での日常は二百通にも及ぶ戦地からの手紙に記され残されていたのだが、非情にもわたしがこの手紙に出会うまでに、何十年もの長い年月が経ってしまっていた。

 母が父のもとへ旅立ったのは平成22年の1月24日。それからすべてのことが、わたしの肩にかかって来た。わたしは一人娘で他家に嫁いでいる。京都から佐竹のお殿様と共に秋田の地に移り住んだ柳原家のわたしの流れが、ここで閉じることになるのだが、上京する時も結婚する時も親戚中に反対され、後はどうするのだと念書の様な約束までしていたわたし。

 澄んだ空に、もうすべては千の風になって。そしてこれからも千の風にすべてはなる。

 

  母は宇宙船に乗って父のもとへ

 母がいなくなり時は刻々と流れても、無情にも現実は、嘆いたり追憶の時間も無く、泣いている暇などもなかった。

15年も無人でそのままの家の整理と後始末をしなくてはならなかった。母が帰りたいと言っているうちは、家の整理には手をつけられなかったので、そのままにしていたのだった。

 時々訪ねる家は底冷えして、シーンと静まりかえり、夏でもひんやりと何かが消えたようで、まるで家そのものが眠ってしまっているかのようだった。 しかし訪れる季節ごとに庭の草や木たちは生き生きと伸び茂り、自由に季節を感じて花を咲かせ、実をつけ何年も主の居ない家を守ってきていた。 

 残された父の弓道の師範額や漢詩の額等は、訪れるたびに表装しなおしや、額に入れたりと少しづつ整理をしてきた。 

畳半畳よりふた回りほど小さいが、桐の大きな箱におさまっていた刀剣は再登録されて靖国神社に納めさせていただいた。その時、古色蒼然とした手紙の束が沢山残されていることをはじめて知った。

 遺品はその外に当時使用されていた無骨な防風眼鏡や時計など、そして漢詩の書や、中国で交わった人たちとの交歓の書等が入っていた。

祖父が、戦死したわたしの父の為に作らせたその立派な桐の箱の所在を知ったのは今から十年ほど前、わたしは思い切ってその大きな箱を、一人で開けたことがある。

 その桐の箱の蓋の裏部分に、当時の隊長さんが書いたと思われる父の壮絶な戦死の様子等が墨書されていた。

そして則光の名のある刀と共に、弾が貫通したカーキ色の軍服の胸の部分が和紙の包みの中から現れた。のだ。

何十年という時間が時が鮮やかに蘇り一気に時を吸い込んだような瞬間だった。

 其の後一人で開けてみる勇気はなかった。その十年後の今、わたしは息子と娘の立会いの下、再び開けることを決心をした。

 しかし、覚悟を決めて再び開けたその中に、みんなに見てもらいたかった和紙に包まれたそのカーキ色のフエルト状の布の端は、どこにも見当たらなかったのだった。

 どうしたことだろう?

夢?それは夢だったのか。

 夢にしても幻としても、未だに鮮やかな色でわたしの瞼の底に映り残っているというのに。

 

  野田安平様との御縁

 靖国神社の野田様からお電話を頂いた。
以前の刀剣等の奉納の証書をお渡ししますとの事だった。

そして父からの書簡類や葉書の整理は一応読んでから、その要約をお渡し下さいとも。野田様にそのお言葉を頂いたとき、そしてお会いしたこの時、わたしは父の手紙を初めて読む決心をしたのだった。

 そして時を経てこの茶色に変色した手紙を新たに書き写すことで、わたしは父と父の戦地での二年間を、共に過ごすことが出来る機会を与えられたのだった。

特別に暑いこの2010年の夏を、父と共にわたしは初めて生きたような気がする。

父と過ごしたこの時をくださった、靖国神社の野田様には、心からの感謝を申し述べます。

 一部分の手紙や写真は、テレビや新聞の取材の為に取り出して、母が別納していた。突然空気に触れ時間を一気にすいこんだ古代の木簡の様に、茶色に変色していた書簡類は、恐れもあって何か触れてはいけないもののようにわたしには思えた。

ある日のテレビ取材の打ち合わせで母がその書簡を取りだす段取りになっていた。母は澄ました顔でカメラに向かって、「戦地からの手紙はここにありますので」と、予定どうりふすまを開けた。わたしはそのことを知らされてなかったので慌てたが、もうカメラは廻っていた。

その押し入れには数か月前の母の入院以来、初めて帰秋し、今慌てて押しこんだ布団類が上段に雪崩れていたのだったから・・・。何しろ五か月前、秋田から東京の慈恵医大まで車と飛行機を乗り継ぎ、予約の午後一時の到着を目指し、四時に起き、そのままの五ヶ月後の我が家だった。母を無事に病院に届けることで、押し入れの整理どころではなかった。

のちにテレビ放送を見た友人たちに、「お宅も家と変わらないので安心したわ。」と。だれもが古い手紙の束と一緒に、押し込まれ雪崩れた布団の山もしっかり見ていたのだった。

そして今、母はわたしが父の葉書を抱いて感無量の顔の前で、「みせなかったかしら?・」と真顔でつぶやいていた母の顔も思い出す。

母にとってそれが最後の帰秋となってしまったのだが、入院中も、「良くなったら皆で秋田に行きましょうね」と、秋田の素晴らしさを誇りに、だれかれと宣伝する母だった。


画家の叔父のこと

私の叔父、父の弟久之助は東京の美術学校を卒業後東京の白木屋デパートのデザイン部に勤めながら絵の修業をしていたのだが、父の出征後、秋田のはかりや印刷所を継ぐべく呼び戻され秋田に帰ってきていた。

父の戦死後、戦争が激しくなり祖父庭之助が一代で築いた東北一の印刷所も統合されることになり、祖父は顧問の座に甘んじ、叔父は画業にやっと専念出来るようになった。しかし現実は厳しく、叔父は戦前からの夢フランス留学も断念、日々の暮らしに追われる身となってしまっていた。

小さい時から入り浸っていた叔父のお洒落なアトリエは、ドイツ人のマッコールさんという人が、ドイツ風和洋式で建てた家を、隣の町内から引き屋で運んで来たものだった。その様子を見たという近所の人から聞いたのだが、見物人が多くみものだったとか。

家の隣がそのアトリエだったので物心ついたときから叔父を「ご飯です」と迎えに行くのが私の役目だった。

それでも叔父がすぐに来なかったり、面倒くさい時は庭からアトリエに向かって大声で「叔父ちゃ~ん、ごはんン~」と。町内のおじちゃんがみんな来てしまうよと母や叔母に笑われながら…。

その頃はお洒落な洋風な建物のことをアトリエというのかなと思っていた。ポーチの様な玄関を入るとそこは吹き抜けの広間で、窓は高く、部屋の真ん中に稼働式の大きなイーゼルがドーンと置かれ、ぴかぴかの手回しの蓄音器が謎めいた空間をより不思議なものにしてい

それはラッパ式のものではなく、まるでオーケストラボックスのように重厚な造りをしていた。ゴブラン織りの正面の扉を観音開きに開けると、まるでオペラ座の舞台のようだったし、時にはシューベルトの魔王の声が聞こえてきたりしていた。 

絶対触ってはいけないヴァイオリンも、皮のケースの中に有ることも知っていた。

写真を現像する小さい暗室も秘密の匂いがしていて、入ることを許された時の嬉しさといったら!。

暗室の水の入ったバットの中で、ピンセットで印画紙を揺らすたびに、少しずつ立ち現れてくる画像たちにドキドキした。まるで秘密の何かの共犯者の様に・・。

4畳半の只一つの和室には小さい床の間、囲炉裏が切られ、掃き出し口もあってお茶室の雰囲気が漂っていた。叔父はその囲炉裏に五徳を置いて、小さい土鍋で何やらサジでかき回す、とろとろする音を私はよく聞いていた。

 それは日本画用のにかわを溶く作業で、何かに向かって集中していくようだったが、私が後年同じことをする人になろうなどとはその時は知る由もなく。

二階にはドイツ風の装飾が荘厳な大きな鉄製の青いダブルベッド、傍らに白くてかわいい赤ちゃん用のベッドが置かれ一度寝てみたいなとも思っていた。

(後年、時を経て叔父からプレゼントされて、わたしの子どもたちが、眠ることになるのだが・・・)

奥の秘密めいた突き辺りの二畳ほどの部屋は、大きな絵で一杯だったが、日展の前身文展に挑戦中の叔父だった。その頃の文展に入るということは、新聞の藝術覧のトップニュースになるぐらいの出来事で、絵描きの道がこれで許されるような権威があったように思う。

その夢は私が小学校の高学年の時にやっとかない、私の担任の先生までお呼びして祝った。家の家族にとっても最高に嬉しい出来事だったに違いない。

再三戦地の父の手紙に「文展の結果は如可に?」と聞いてきていたのだが、自分の出征で出来なくなった弟の絵描きとしての人生を、心配していた父であった。

私も絵描きのはしくれとして思うのだが、今の世の中では考えられない程、その頃の環境はすべての人にとって、特に生産性の無い絵描きにとっては苛酷な日々だったのだとおもう。

父の手紙に「いつの日か、必ず平和が訪れ芸術に邁進できる日が来ることを切に願う。その日は必ず来る事を確信する」と。

だが叔父の戦後はその日も遠く・・・。

 遥かなる絵の道

 いつも叔父は「絵を描くことは絵描きの使命のようなもの、描かなくては!自分の為に、どんな時でも」とよく言っていた。

 私の師、高山辰雄先生にも同じようなことを言われたことを思い出す。初めてお会いして夢中の私に、たとえ恋愛中であっても描く決心が有りますか?と。そして茨の中に手を入れるとき痛いのだがそれを抜くときにもっと痛いが、その覚悟もありますか?とも。

人の何倍もデッサンをしなさい。そして自分を磨きなさい。そしてその自分を描けばいいのだよと。

絵のことで来るのであればいつでもいらっしゃい、という夢のような言葉を戴いていてそれから何度成城のお宅に伺ったことか。

 絵は自分が出なければいけない。が出すぎてもいけない・・・。「傳える言葉が有れば、簡単なことだが、その言葉が見つからない。」いつも禅問答のような会話の中で少しづつ、少しづつ、何かがわかってくるには何年も何年も。

 このはなさくや

叔父のアトリエには絵描きさんはじめ詩人などいろんな人が集まってきていて、皆が「ひろこちゃん!」といって可愛がってくれた。そんなある日一人の青年がわたしに手作りの本を「これ、ひろこちゃんにあげる」と差しだした。

それは古事記を子供向けに書き下ろした厚さ二センチほどもある上下二巻揃いの本で、表紙が私の好きな淡い桃色をしていた。

題名は「かみさまのほん」。悲しい哉、字が読めなかった幼いわたし。家の暇そうな人を襲っては読んでもらっていたのだが、叔父が一番の読み手だった。

 その中にあったのが「木之花咲彌姫」のお話。高天原から降りて来た神様がひとめぼれをしてしまうほどの美しい女性のお話しだった。

そして出産のときにわたしの真実をあかしますと、産屋に火を放って無事に子供を産んだという強い心を持つ女性。

(子ども心には何のことかわからなかったのだが、のっぴきならないこと?とも感じていた。)

この今まで聞いたことも無い程、強くて美しい魅力的なお話に幼いわたしは心をわしづかみにされ、衝撃を受けた。

 優しくて強い女性に魅せられたその時から、それはどんな人なのかと四六時中思いを巡らすようになった。それからというもの、さし絵が無かったのが幸いし、ああでもない、こうでもないと飽かずに、毎日毎日描いていた。

幼稚園に行っても毎日描いているので先生に「誰なの?お母さん?」と聞かれるのだが、その名は長く難しくて伝えられないもどかしさ。

朝、母に教わるのだが、幼稚園児には覚えられない長すぎる名前!「このはなさくやひめ」。

それからも気になって描かずにはいられない。納得できないまま、その後も今もずっと飽かずに、その続きをしているわたし。

 小学校中学年になると外国の話にも興味を持ち、マリーアントワネットの美しく毅然とした姿に憧れた。洋の東西を問わず素敵なお姫様をグローバルに描きたかった。戦後間もない紙もなにも無い時代、これだけは有るという国語や算数のノートの後ろからそっと描きはじめる。勉強よりも後ろのページが勢いよく進み、先生の苦笑いしながらの注意もよくうけていた。

だがその絵を見た同級生が、「描いて、描いて」と休み時間に集まり、他のクラスの生徒までも行列をして並ぶぐらい繁盛してしまった。

休み時間を気にして粗製乱造気味だったから、会心の出来では無い、申し訳ない思いがいまだに残っている。

詩人になりたかった五年生のころ、国語の授業中に詩がとめどもなく溢れだし、吃驚した担任の先生に詩人の先生を紹介された。伺うとその詩人の先生が長い前髪をグイと顎で上げたのを見て、すぐに嫌いになってしまった。

詩が出来ると行かなければならない。とうとう詩がパタッと出てこなくなってしまい、詩人になる夢はそこで終わってしまうのだった。

 高学年になると母に叱られながらも内緒で、叔父の愛読書「映画の友」や「新青年」が私の愛読書にもなっていた。マレーネ・デ―トリッヒやテンプルちゃんに憧れ夢見る日、今となってはその頃にわたしのなにかがすでに出来上がってしまっていたような気がする。特に「新青年」の外国の翻訳ものが面白くて、その頃流行りの少女小説などは目ではなかったから。

六年生の夏休みの読書感想文は「アンナカレーニナ」。先生に怪訝な顔をされたが、あの頃の方がもしかしてもっと大人だったのかもしれない・・・。

叔父は戦後秋田県立秋田北高等学校の絵の教師となった。ハンサムな絵の先生は生徒の憧れの的でもあった。

わたしが在校中の朝の登校は、叔父とわたしは追いつ追われつ、楢山の我が家から保戸野の校舎まで45分歩く。このお陰で健脚にもなった!が、絵の授業は受けなかった。

叔父は何時もアトリエで絵を描いていたが、絵を描いている叔父にはバリアがあって普段と違う、怖そうで大変な仕事なんだなあと思い、絵描きにだけはなるまいとずっと思っていた私だったから。  

(後年私の子供たちにもバリアが有ったといわれて吃驚した。すみません)

 母も私も受験生

 中学の三年生になったわたしは高校受験、母は今の農業短大を目指していたので受験勉強を二人でしていた。

その時母40歳。父が中国山西省で戦死した時母は27歳。はかりや印刷所が断腸の思いで統合され祖父が新会社の顧問にはなったが、収入は激減。国の債券も紙きれのようになり、母は自立の道をこの十年来探し続けていた。

 受験の時着物しかない母はつき添いと間違えられて、父兄は外でお待ちくださいといわれたらしく、いつも若い同級生と会うと大笑いをしていた。

無事に入学した母は卒業後、農業生活指導員となって県内はおろか全国を駆け廻る忙しいキャリアウーマンの先駆けとなるのだった。

こうして母の華やかな第二幕が上がったのだった。

高校を出た私は、叔父のアトリエを訪ねて来る東京からやってくる華やかな、女子美の学生たちに羨望の目を向けていたが、まだ絵を描く人にはなろうという気はしていなかった。

高校の担任の先生の勧めで秋田大学の小学校教師の課程に入学した。その二年後専攻科目を決める時がやってきた。(その頃の大学課程はゆるやかなものであったから私の様にのんびり屋さんにはぴったりで、とても感謝している)

同級生が児童心理研究室に入部するというので何となくついて行った時、一つ手前の部屋の戸が何故か開いていた。

何気なく見ると、何かが渦巻いているような不思議な空気。

なんと叔父のアトリエとおなじ匂いがし、どきどきした。

「私はここに入るネ・・・」思わず一人でむさくるしい?部屋に入って行った。

何人か人がいたらしいが、木の窓枠に眠そうな一人の青年がはまるように座っていたことしか覚えていない。
 そしてこんな人と結婚したら大変だろうなとその時何故か直感した。
 そこが美術研究室。私と美術の最初の出会いの日となるのだった。

 三年生になって美術の中でも専攻を決める時、たまたま通った部屋の中で、国内留学から帰って来たばかりの新進気鋭の横山津恵先生が、一人で座っていらした。

だれも専攻する人がいないようなので、張り切っている先生に失礼ではないかと

「私が、」と思わず研究室に入る。これが私の日本画との出会いとなるのだった。

今思うと美研の戸を開け、専攻は日本画にと背中を押してくれたのは私の父だったのだと確信する。

 だがその時は、大叔母が寺崎廣業の弟子だったが三十歳ぐらいの若さで世を去っていると祖母から聞いていて、そのあとを私が継いでいくくらいのことしか考えていなかった。

卒業制作は初めての大作、一寸ゴ―ギャンに似た感じのエジプトの三人の女性。

しかしデッサンをしても紙からはみだし、とても物にはならない。高校から絵の為の受験勉強をして来る同級生とは違い、全くの白いキャンバスの様な私だった。

 寄ってたかって皆が教えてくれたし、ぐちゃぐちゃになると、今に大物になるよと慰められてもいたぐらいだから、本当にひどいものだった。

「あの人がね~」と今の私を結び付けて吃驚しているのは、先輩や同級生達だけではない。高校生になっても美術部にも興味が無く、中学から大学まで新聞部員で着るものは黒が好きで、部屋も女の子みたいでないねとよく云われていた硬派の私だった。

あの美研の窓枠にはまっていた青年にも、つい最近感慨深げに「よくがんばって此処まで来たね」といわれた。

これからも何回も云われそうな気がする。

 あの美術研究室の窓枠の出会いの九年後から、ずっと一緒に住んでいる人なのだから。

 転機 そして大きな出逢い

 大学を無事に卒業して秋田市立下浜小学校に奉職。絵を教える立場になったその頃から、人物を描くにはもっと裸婦の基礎デッサンをしなくてはいけないと思うようになった。やっと欲なるものが出て来た時だった。

秋田には残念ながら裸婦のモデルさんはいなく、東京から呼ぶとなると費用が高くなる。ならばと月に一回ぐらい、東京の明大前のクロッキー研究所に通うことにした。

 土曜日に夜行で行き、日曜日の夜行で帰り、下浜小に月曜日の朝に直行する。

そうこうしているうち、冬休みに出かけたとき、何となく、まさか受かるとも思わずに就職試験を受ける羽目になってしまった。

 それが運悪く?、受かってしまったのだった。そしてすぐ就職の為に上京しなさいと。その出版社があのからくちで有名な山本夏彦さんの編集室の工作社だった。

のちこの何十年後、息子が久世光彦さんと山本夏彦社長との対談をプロデュースすることになるのだが、人生は不思議に満ちている。 

教え子たちと二十四ならぬ四十八の瞳に泣く泣く別れを告げ、東京を目指したのが二十五歳の冬だった。母初め誰も賛成しない決死の上京、叔父と二、三人の友が見送ってくれた淋しい夜行列車の秋田駅一番ホームだった。

 後、叔父だけが「ひろこちゃんだったら大丈夫」といってくれていたことがわかって嬉しかったのだが。

上京後展覧会を見るチャンスが増えた。

命は何処から来てどこへ行くのか、そんな深いテーマを感ずるゴ―ギャンが好きで、そのゴ―ギャンに触発されたという高山辰雄先生の絵にも強く惹かれるようになった。先生に何度かアタックしてみたものの何処の馬の骨かわからないわたしに逢う必要などないのは当たり前。諦めかけていたときに先生の奥様が「私がお父さんにお話しましょう」とおっしゃって下さった。

天にも昇る気持ちでお許しが出た時にありったけの絵を、小型のトラックに積んで出かけた。そして応接間に通されそのすべての絵を部屋中に並べて先生をお待ちした。

その時先生は白いとっくりセーターで現れ、私の絵を見るなり「これにはあなたが居る、居ない」とそれだけおっしゃって。そしてその後、とにかく絵の事だったらいつでもいらっしゃいと、とうとうお許しが出たのだった。そして師ということではなく仲間として助言しましょうと。

 この言葉には今でも耳を疑っている。

成城のお宅から汗びっしょりで帰ってきて長椅子にぐったりして、いつの間にか寝てしまうほど疲れがどっと出た。

 目覚めてから夢だったのではないかと疑ったが、その日の出来事は夢ではなく、本当に本当のことなのであった。

それから十何年かが経ち、いつだったか、「あの最初に見えた時の貴女は、不埒な糸と素直な糸がよりあわさっていた。そのような絵をいつ描いてみせてくれるのですか」と先生。あの時わたしと目を全く合わさなかったのに、きちんと見ていて下さっていた!怖い程の感激だった。

成城の家にお電話をしてから出かけるのだが、「すぐいらっしゃい」の言葉ですぐ伺えるように準備をして電話をかける。伺って、少しでもいい作品だと玄関からでも「八重子―」(奥様のお名前) 「佐藤さんがいいのを描いてきたよー」とお呼びになる声は未だに耳の底に残っている。

もうひとつ、心に残っている言葉は。

 日展に初入選の時、大抵の人が「やっと入選ですね」と。先生は「とうとうやりましたね」とおっしゃってくださった。 

  あの優しいお声と共にいつまでもその深い言葉が胸に残っている。

 母の恋文にもえらく関心を示し、あの文章の様な絵をいつか描きなさいとも。

 母の入院中、先生の奥様も具合が悪く、そんな時、頑張りましょうと握手していただいたことがある。

「先生からパワーを頂きました。ありがとうございます」とわたし。

すると先生も「こちらこそ頂きましたよ」と。

 一期一会の忘れられない大事な瞬間だった。

 外国で憧れの個展

 1994年、忘れられない一つの始まりがやってきた。
不失花(うせざるはな)の50号の絵がセントラル美術館大賞展に入選した
。その時トルコで開催のジャパンフェスティバルに、個展として参加しませんかと推薦された。

初めは眉唾な話と思っていたが、大使館のレセプションで国レベルの話で海部首相も御一緒だということがわかった。
 まだ見ぬトルコの青い空を想像して描いた作品10点と共に、イスタンブールへ飛んだのは風爽やかな五月のことだった。「私の絵は裸婦が多いのですが・・・」の問いに

 「トルコは宗教も政治も芸術もすべて独立しています。
どうぞ素晴らしい裸婦の作品をもってきてください」と大使の言葉に勇気づけられながら。

オープニングはトプカプ宮殿、ファイナルはドルマバチェフ宮殿。
およそ二千人の人が参加した。

月の美しい会場で 「私たちは昔中央アジアで一緒に暮らしていたが、砂漠化が進んで東へ西へと別れて行った。しかし今又、此処で逢いましたね」と抱きしめてくれたトルコの人達。

会場では一枚の絵の前で「これは私です」と涙ぐんでいる一人の少女が居た。
絵の題名は{月の}。

 月の様な女性というのはトルコでは最高の褒め言葉とか、女性の本質なのかも知れない。医学生の彼女の名前を聞くことすら忘れて私は感動していた。

 絵は言葉もいらない、人の心を動かすもの、とその時、異国で確かな手ごたえを感じたのだった。

次の年はフランスのオルレアンで。その次はデイジョンで個展の話が続く。高山先生にきみは自由でいいねと言われながら。

子供たちがまだ小学生のころ、母の友人が退職してからフランスに彫刻の勉強にと留学していた。それと近くの友人が転勤でフランスにいっていて、赴任中にぜひいらっしゃいと言ってくれていた。

真に受けて出かけたかの地、始めてみるフランスは雨にけむり銀色だった。緊張しての一人旅、スケッチブックを広げるゆとりもなく、只強烈な印象だけがのこった。

一ドル360円の時代、添乗員さんの所持金をあずかリますの声で、皆が大金をフランに換える。これだけですか?とわたしは再度云われるぐらいの貧乏旅行だった。友人知人に見送られた羽田では、まさに往年の洋行の言葉がぴったりの華やかな様子だったのだが。

「本当にいくの?」と小学生二人の面倒をお願いした母の再度の問いに、「はい」と小さく答えて、渋々承諾してもらった強引の旅だった。

フランス・オルレアンのジャパンフェスティバルの個展の時は、この最初のパリの印象が強く、銀色の裸婦を描きたくなって墨と胡粉そして銀箔のモノクロで仕上げた。

 これがわたしの白と黒の世界の始まりだった。

題は{このはなさくや}。初めて木の花咲耶の名をつけたこの絵は、他の絵と一緒にエールフランスの飛行機ではるばると運ばれ、フランス・オルレアンとデジィョンの会場に飾られた。

そして日本では臥龍桜日本画大賞展に出品した。

 絵を描くということ

 秘色。秘めた色。花には葉の緑が、葉には花の赤い色が密かに入っているから、反対色でも美しく響きあう。その度合いが難しいが感に頼るので、わたしはコンピューターならぬカンピュータ―らしい。

感度を良くするには、思いが深く高くそして持続、集中するしかないのだ。それが極度に高まった時、わたしはそう信じているのだが、天からの司令の様なものが来るように思う。低いレベルでは全く手助けが無いから。

或る時隣の部屋で母がお昼寝、私は許しを得て、絵を描いていた。どのくらい時間が経ったのか。ごそっと音がして、私は飛び上るほど吃驚して我に返った。その時高いところからどっと自分が落ちてくる感覚を味わった。

母が居て隣の部屋でお昼寝しているのさえすっかり忘れるぐらい集中していた。

 いつもはゆっくりとクールダウンしてきているから気が付かなかったのだが、この時から私が絵を描いているのではなく、描かせていただいていることを強く思うようになった。

何色が好きと問われて、即、何と云い難い時がある。日本画の白緑が好きなのだが、身につけ着る物となると又違うように思う。

色も何かの思い出と重なる部分が多いし、刷り込まれている場合が多い。小学校低学年で母の友人からのプレゼントだと思うのだが、あまり見たことが無い位大きくて豪華なクレヨンのセットを持っていた。物資が無い時代、それは私にとって宝石の様なもの。二十四色以上はあったかもしれない。

その中で強くて優しい大人の女性を感じていた色があった。それは牡丹色と表示されていて読めなかったから良く覚えている。友達も見たことが無いきれいな色ということで、「貸してね」とよく貸してあげていた。

クレヨンが帰ってくるたびに少し減っていて、いやと云えない私は気も減るようだった。だから今もその色、深いローズが好き。

黒の洋服は着ていて安心するがこれはデザインに気難しい。当たり前がいやなのだ。これにも訳があった。おしゃれを意識する中学生のころ、着たくても物は無く布地も無い。叔父がアトリエの暗幕を使ったらと提案してくれた。フリルのついたお洒落な上着を腕のある洋服の仕立て屋さんが、縫ってくれた。

同級生がよく似合うわねと云ってくれ、私もまんざらではなかった。

その時から黒が大好き。

 展覧会場で黒が好きですね。何故と云う人がたまにいる。全ての色が入っているからと私は答えることにしている。

 青はトルコ行きが決まった時、未だ見ぬ憧れのトルコのブルーを嵐のように使って描いた。『あなたのおかげで本当の青を知りました』とトルコの人に言わしめたくらい青に染まっていた時間だった。

 青はあの時の優しいトルコの人々を思い出す。だから青が好き。

 叔母からよく言われていた。「ひろこちゃんは、アクセサリーが好きなのね。まるで、淡島様みたいよ」。と。そういう叔母はわたしにとって、お洒落な女の人、という格別のイメージがあった。

母の妹叔母は、私の母が結婚したのでよく家に遊びに来ていて、父の弟、つまりは私の叔父と当時では珍しい恋愛結婚をした。いわば私の憧れ、ひとめぼれ組みだったのだ。ペアの洋服を着ていて、わたしも好きな人が出来て結婚したら、絶対ペアルックにしようと決めていたぐらい恰好よかった。

淡島さんは何時でもじゃらじゃらと、首から仏様のようらくをアクセサリーのように掛けた女の神様。後年この神様の民俗学書の挿絵を描くことになること等はその時知る由もなく。

雅楽紅多(がらくた)展というミニの展覧会をしたぐらいアクセサリーが好きなのは、もしかして祖母の遺伝子のせいかもしれないと思っている。

戦争中物資が無く各家庭の鉄の鍋やら薬缶の供出がはじまり、家では銀の簪なども国に差し出した。真面目な国民だったにもかかわらず、祖母はその外の装飾品は密かに隠し持っていたのだった。

 というより、こんなので弾なんか作れっこないと、戦争の為には絶対使いたくなかったのだと思う。

 羅蜔や蒔絵の櫛、笄、簪、祖母は明治、大正の美しい美の継承者だった。その黒漆塗りや朱の笄、鼈甲の櫛が、目の前に母の手で差し出された時、軽いめまいさえ覚えた程、こんなに美しいものが家にあったことを、誇りに思った。

でももっと早く出逢いたかった。私はその時すでに還暦を過ぎてしまっていたから。絵の個展などで着物が好きでよく着ていたし、出来ればトルコの展覧会はこの鼈甲の簪で飾りたかった。

 従妹がトルコの個展のお祝いにと宇宙のイメージで染めた何枚かの加賀友禅を送ってくれた。毎日替えて着ていた程着物は大好き、後日その中の一枚をプレゼントされた。
日本の民族衣装の誇りをもって大事な時にはいつもこの着物を着させていただいている。

 田舎の風と

祖父庭之助がはかりや印刷所を統合し顧問の地位に退き、そして始めたのが秋田市の郊外での開拓農業だった。今では町になってしまったが、その頃は原野にポツンと一軒の家を建て晴耕雨読の生活、甘露園と名付けた。

近くの農家の人たちとの交流もあって、田んぼでお米、畑にはジャガイモやらきゅうりいんげんなど。時々かぼちゃがごろりとしていたり。鶏は何時も新鮮な卵を産み、山羊の乳をわたしは欲しいだけ飲み、近くの、実は向かいの山の住人から戴いたという山もりの苺を、口を真っ赤にして笊一杯食べたり。

 桃栗三年とかいうが、今年こそはと祖父が毎年心待ちにしていた果物があった。

実がなればこんなのだよと祖父は写真を見せて楽しみにしていたが遂に見ずじまいだった。未だに出会ってないのだが、その懐かしい名前はポポー。

 祖父が飼っていた兎の、ふわふわマフラーはお洒落で豪華なものだった。なのにちょっと困っていたわたし。

 すぐ近くの川で魚取りもした。T定規の様な形の木に足を乗せて川底をゴリゴリ進み、わたしが大きな籠網を広げて待っている。かかった魚はゴリ。

夕食のおかずになるので祖母が喜ぶのだ。

いつだったか、台風の後増水して河の流れが変わり、土地が大きく削られて畑が無くなってしまったことがある。雨の中、祖父の茫然と立ちつくす毅然とした姿に「風と共に去りぬ」のワンシーンを重ね美しいと思う私だった。

 何処の情報なのか、今度は温泉が出るとのことでボーリングを重ねたが、何回目かで遂に祖父は断念した。

後年少し離れた場所で温泉が出て、秋田温泉となって今賑わっている。

 これだけは成功しなくてよかったと思う。もし出ていれば、わたしは今頃女将になって秋田で忙しくしていたことだろうから。

日露戦争にでかけ産業革命の洗礼を受けて帰還し、後にはかりや印刷所を創立した祖父はハイカラだった。

そういえば、大阪や東京に社用で出かけた祖父からもらったという、お洒落なハンドバッグを、年上の従妹から最近渡された。「これはひろこちゃんが持ってた方がいいよ」と。 

 鏡がはいっている赤い布製のハンドバッグ、は、優しい祖父からの思い出の贈り物として今も大切にしている。

 夢違い

 関東大震災の時、祖父はちょうど上京していた。あっという間のできごとで、境内は累々たる屍・・・。そこは浅草、浅草寺だった。

観音様に助けられたと、ふと立ち寄った骨董屋の店で出会ったのが観音様。御縁と感じ秋田まで背負って帰ったのだった。

つい一年前、秋田から東京へこの観音様をお連れしようと持ち上げようとしたわたし。びくともしなかったのに・・・。

 それから観音信仰者となった祖父と祖母。その影響を強く受けたのが、わたしの父淳之助だった。

 中学で歴史の本の中にそっくりの夢違観音を見つけて感動した。

今その観音様はわたしの春秋を東京でいつも見つめてくださっている。

 雪の白と冬の空

 小さい頃のわたしは休みの日は、楢山から、新藤田の祖父母の家まで、歩いて数時間かけて遊びに行った。

あと少しで家がみえる頃、右手に神社の赤い鳥居がみえるとほっとして、小川のセセラギに疲れた足を浸し、最後のスパートをかけるのが常だった。

獣道の様な道をいつの間にか、祖父は家まで硬い道路を作り、初めは井戸だったが水道を引き、ランプのほや磨きも楽しかったのだが、電気も引いた。全部自力で。

 わたしはお天気のいい日は、畑や田んぼを見渡せる小高い丘の一本の木の下に、小さい台を持って行く。

 雲雀が鳴いて、野の花が、そよぐ風をつれてきて、ここはわたしの部屋みたいと。そこで勉強したり本を読んだ。

 ある冬の日、いつものように出かけたが、冬の早い夕暮れであっという間に真っ暗になった。そして雪の道の上に又雪がつもって道路が全く分からなくなった。

 此処いらへんかなと思い切って進んだ時、ずぶりと足が入ってしまい首まで雪の中に埋まってしまった。祖父母の家の灯かりがすぐそこに見えているというのに。

その時真っ白の雪原に月の光が皓皓と差し込んだ。

 そして眩しいぐらいの銀色の世界が文字どうり眼の前に広がった。

風も無く、漆黒の空の月。怖かったのだが、なぜか感動した。

あまりの美しさに感激し、その後のことの記憶は全く無い。

今モノクロの世界に導かれているのも、この情景に出逢っていたからだ。きっと。
秋田に生まれて本当に良かったと思う。

 冬の日の早い夕暮れ、今日は帰るという私に祖母は今自分がはめていた手袋をはずして私の手にはめてくれた。この寒さが強くなるのに素手の私の手がかわいそうに見えたのだ。今でもその手袋の色を忘れていない。戦後は毛糸もぜいたく品。いろんな毛糸を混ぜた手編みの手袋、その暖かい祖母のぬくもりも忘れていない。

 今祖父の家が一軒しかなかった原野は町になり、私しか知らない思い出の原風景と深く重なっている。

  母の恋文 そしてアメリカへ夢の旅

 1995年2月14日。二ツ井町の第一回恋文大賞受賞式。

母の書いた「天国のあなたへ」が大賞を戴いた。

80歳の夏、軽い脳こうそくを発症し、秋田の脳研に入院した。

初めは手がいうことが効かなく、男先生のおだてのリハビリに良く乗って、やっと鉛筆が持てる迄に回復をした。

そんなある日近くの郵便局で二ツ井町の恋文募集のポスターを目にしたのだった。

字が書ける喜びで一気に書いたのがあの「天国のあなたへ」だった。

そういえば帰秋した時に確か原稿用紙を頼まれていた。何を書くのか聞かなかったが、「入選の百一篇の中に選ばれたよ」との電話をもらった時「何を書いたの?」と聞いた。

「それはおしょしくて(恥ずかしくて)いわれない・・・。思い切って書いたし広告の裏だから、丸めて棄てたよ」と。

「でもね。大賞はアメリカの旅がもらえるって・・・。」と母が云ったその瞬間、私に向かってアメリカ大陸がまるでグーグルアースのように廻りながらドーンと近づいてきた。

思わず「行けるかもしれない!?」と母に叫んでいる私がいた。

一番素朴な恋文で迫力があったらしい。
特に女性の審査員の先生がおしてくれたと後で聞いた。わかるような気がする・・・。

それからが母にとっての第三?の華やかなステージの幕が、人生が始まった。

副賞で頂いた旅のチケットはペア券。恋文のお相手は天国なので、わたしと娘といとこも加わ

なので、わたしと娘といとこも加わって、女四人で出かけることになった。

目的地はその頃映画で小説で有名になったアメリカはアイオワ州マディソン郡の橋。

81歳を80歳と可愛くサバを読んだ母は初めは「歳だから行かない」といって町を慌てさせたが、私の夫の「おぶってでも連れて行け」との強いアドバイスに従って六月の空を一路アメリカへと飛んだのだった。

 シアトルまで8時間、「昔の秋田東京間の特急と同じ時間で楽よね」と云いながら。

アメリカ入国審査官に、「旅してますか」と質問され「イエス」。と答え。

それは「たびもの?(たべもの)」とのことで再度聞かれ、「オ―ノ―」と。

本当は秋田駅で見送りの人から頂いた笹巻きを背中に背負ってた!・・・。ニューヨークのホテルで、バスタブのお湯で温めて風呂敷を広げて食べたその笹巻きを。

思えば女四人の華やかな珍道中だった。

 その頃は今のように海外旅行が当たり前の時代では無かったように思う。

ノースウエスト航空には日本人は一人も乗っていなくて、もうすでに外国のようだったから。

中国人と思っていたスチュワーデスが、秋田の国際大学の卒業生とわかった時、本当にほっとした。

母も嬉しくなって何のお礼なのか、お礼にと梅干を瓶ごとプレゼントしてしまった・・。

 飛行機の中で隣り合わせのアメリカの少年に、母は折り紙を伝授していた。お返しにポケットからあやとりのひもを出した少年に、日本だけかと思ったと日本語で云いながら、あやとりを楽しんでいた母。

ノースピークイングリッシュの女四人の旅は一生も二生も忘れられない豪華な思い出。そして人生の宝物。

皆きらきらして輝いていた一週間の旅は、今までもこれからも無いであろう、贅沢なそして華やかな楽しい夢の様な旅であった。

 初めて訪ねたローズマンブリッジは恋の思い出の場所、わたしたちに甘い風を送ってくる。皆ヒロインになった気分で日傘をくるくるまわしてにっこりポーズ。

後のインタビューで、この中で一番ハイカラなのがわたしです、と母。

 デモインの町ではジョンウエインの生家の博物館で、オールドファッシォンの服を着た西部の叔母様たちにあったり、骨董屋さんで揺り椅子の叔父さんをジョンウエインと重ねてみたり・・・。

イーストウッドがヘリで見つけたお洒落な木の家。ここが映画のラブシーンを撮ったところねと、此処でもヒロイン気分。二階の木の階段を上がってお風呂のシーンを想像したり。

まだ日本では公開していなかったが、アメリカは観光客で賑やかだった。この椅子に座ってたのよと言われ、皆で代わりばんこに座ってみたりした。

からっとした気候は母の体調に合い、この旅は最高のプレゼントだった。此処に移住したいぐらいねと、ご機嫌に揺り椅子に座っていた母の笑顔を思い出す。

 日本で公開された時も四人で観に行ったのだった。あそこへ行った!座った!見た!とその五月蠅いことといったら。

(周りの皆様済みませんでした。)

そしてこの旅のハイライトのニュ―ヨーク、ブロードウエイ、マンハッタンの夜景・・・。

 今でもその時の母の輝く顔が焼きついたまま忘れられない。

帰りたくないねと言いながらついに帰りついた東京、成田。

「道も無いのに良く帰ってきたこと・」。

この母の言葉で最高の旅は締めくくられたのだった。

今でもあの別れの時のニューヨークの「やらずの雨」が、飛行機の窓にぶつかり滴り流れる様が忘れられない。涙の様に。

 四人の宝物の様な素晴らしい旅をプレゼントしてくれた粋な恋文の町・二ツ井に感謝です。

この生涯忘れられない一週間の煌めく旅の思い出は、豆ほんこの会の吉田朗様の御好意で1999年9月9日、豆ほんこの会より出版させていただいた。

思い出すたびに開けてみる「豆本こ」は、たなごころの宝石である。

 母の華やかなる第三幕

 旅から帰っても母の取材が切れることが無かった。新聞、雑誌、テレビ、ラジオ。忙しすぎた。

発作が起こったのは、「取材もほどほどにね」という私に内緒で、今日は何の日という番組の収録中であった。

二度目なので遂に母は秋田の脳研から東京の病院に転院にすることになった。それまで私は毎月毎週のように秋田を往復をしていたのだが、それも、もう限界だった。

母は仕事でよく霞が関の農林省にも来ていたし、同期の友と全国を当番制で旅を楽しんでもいたから比較的こだわらない性格でもあるし・・。とおもいつつ・・。

農林省の仕事が終わると、待ち合わせた銀座を、二人でよくお店をはしごして楽しんでいた、楽しくて帰りたくないなどと冗談でよく言っていたから、憧れの東京都民として暮らすことには多分賛成だった。

 老人保健施設(老健。退院して家に戻る前に日常の生活に戻るための訓練の施設)に退院後入所して、訓練後自宅に戻るという三点セットの生活が何度か繰り返されるようになった。

 母にとってリハビリは辛いことではない。身体訓練は若い男性が手を取り足を取りしてくれるのが嬉しいし、俳句・書道・絵を描く・歌う・ダンス(遊戯?)・粘土細工・オシャレ講座・すべてが楽しいことばかりだった。

「ここは男女共学なのよ」と嬉しそうに言う母「でも月謝は大丈夫なの?」とも。

私のハンコを押した月謝袋を持って安心して習い事をしている姿に、戦争で若い時に出来なかった夢も重なっているのかもしれないと思う私がいた。

92歳の時だった。

高熱が四日も続き主治医の先生に呼ばれた。このまま治れば菌が死滅しもっと丈夫になる筈だから、頑張るようにと。

心の隅に覚悟するものが有った。

しかし四日目の朝奇跡の復活。熱がさがり、目をぱっちり開けて「ここどご?」と。

スッカリ土崎弁になり若返った{若返りすぎ!?}母がいた。

お医者さんの言うとおり後遺症も消えて、スッカリ元気になり何時もの老健へ入所になった。

この病院は二階が老健なので母にしてみれば入退院の区別はあまりない。

お帰りなさいの声ですっかり落ち着いた母に、それから思いがけない出会いが待っていた。


{いよよ華やぐ命なりけり}

新しい人生の始まりだった。

入所して何度目かの訪問の時、一人の男性に寄りそう母の姿を発見した。

「土崎生まれの人ですって」と母にKさんを紹介された。がその男性、「僕は横須賀生まれです」と。しっかり土崎生まれと思いこんでいる母の耳には届かない・・・。

 いつも一人で読書をしている男性が居たことは知っていたが、それ以来行くたびにこの会話から始まり、わたしを「娘です」と、とつけくわえることも忘れない母だった。

しりとり、かるた、なぞなぞ、いつの間にかこの男性を中心にスタッフ無しの自主サークルがはじまっていた。とにかくKさんは入所中の叔母様達の憧れの人だった。

母にとっても隣の席に座ることなどはまるで夢のような時間だったのだ。

母は年長組?だし、退院したばかりということで、いつもKさんの隣の席を譲られて楽しい毎日が始まった。いよよ華やぐ命なりけりそのもののような日々。

目の前のかるたを取るのにKさんがそっと手を添えてくれ、周りの叔母様達も「よかったね~」と喜んでくれて、優しい人たちばかりに囲まれた母はとても幸せだった。

カルタ取りの最中にわたしが訪問したりすると、二十人程の輪に聞こえるようにわたしも読み手になる。

このところ、大きい声を出して無かったな~とおもいながら「犬もあるけば棒に当たる」。

 しりとりにも入り、詰まると教えてくれる叔母様達。

夕方、「またきてね~」との合唱に、見送られるのだが、懐かしくも楽しい時間には別れがたいものがある。

 老健施設が気に入っている母は、「此処のお風呂は温泉だし、ベットもあるし、食事は何とかするから泊って行けば?」と母は必ず奨めてくれる。

病院の流動食からみれば形が有る食事は豪華にうつるらしく、食事もいいしと付け加えることも忘れない。

母は気に入ったこの場所で三ヶ月、精神年齢をどんどん上げ成長をしていった。

 ある日母が入浴中ということでKさんと話をする機会があった。聞けばわたしと同年齢とか。戻ってきた母に「Kさんは、わたしと同級生だって」とつたえた。

女学生くらいの精神年齢になっていた母が云った。

「あの人、そんなに年取ってるの?!」と。
その目はそんなことないでしょ・・・と抗議していた。

すればするほど効果があるのでKさんも面白くなって、計算やらパズル、漢字の四字熟語迄教える。難しい熟語もどんどんすらすらとなってきていた。

そして三か月が過ぎ退所の日がせまってきた。 そこで母に恐る恐る

「家に帰る?」と聞いてみた。

「ちょうどよかった。そろそろ飽きてきてたから・・・」と。もう立派に成人した母がそこには居た。

病気する前よりも元気で若返った母、細胞の一つ一つに活力を与えられて前向きになった母、いくつになっても「恋ごころ」は生きる力の源になるのかもしれない。 

この母の不死鳥の源になった恋心。

感動し触発され、わたしはその六ヶ月後、一人の裸婦像を完成させた。

  題して「花恋」と。

 フィナ―レは始まり

わたしはずっと「このはなさくや」の様な女性に憧れ、描き続けて来た。

強くて優しい女性、そして秋田の女性の様な、儚げでしたたかな女性像を。

そしてこのごろふと思う。

それはもしかしたら、この求め続けた女性こそ、一番身近にいたわたしの母そのものだったのかもしれない。と。  

そして祖母、叔母、娘達・・・すべての人達だったのかもしれないとも。

わたしは憧れの素敵な人たちに囲まれて、毎日を幸せにずっと過ごしてきていたのだった。入所し青い鳥はいつもすぐそばにいたのだ。

 二、三年前から御縁があって、現代アートのフェスティバルに出品させていただいている。

この2010年11月25日から開かれるコンテンポラリ―アート・フェスティバル・START・。フランス・ストラスブールにいつも作品のみの出品だが、今回初めて出かけることにした。

世界から百近いギャラリーが集まるフランス最大のアートの祭典に個展のブースを今年は戴いた。どんな出会いが待っているのかとても楽しみにわくわくしている。「東洋の誘惑」シリーズ16点は、もう空の上を飛び彼の地へ向かっている。    

 叔父は亡くなるまで囲炉裏傍で、こたつの中で時々見ていたフランス語の本。

若き日、留学するのが絵描きの夢の道だったころ、戦争の為に断念したフランス留学。

このSTARTへの出品は、叔父のリベンジでもある。絶対に。

そしてこの文章を書いている私は、文学青年だった父のリベンジかもしれないと思っている。

 戦地からの手紙の封印を解きわたしは父と生きたこの数カ月。思えばこれも母の恋文が発端だった。

恋文を読まれた靖国神社の宮司、大野俊康様からお手紙を戴いたのは、アメリカの旅に出発する日の数日前だった。

恋文に感激し靖国の遊就館に展示して下さるというお話だった。

そしてそれからは、みたま祭りの雪洞を奉納させて戴くことになり、それが今でも続いている。

 {恋文とどいて父は母と桜の散歩}。それが最初の雪洞の絵だった。

後に大きくコピーした絵を送って下さった大野宮司様の親切が、未だに忘れられない。

 父と母は今、天の國で二人しっかり手をつないで幸せにして居ることと思う。

あれやこれやと四方山話をしながら、この絵のように・・・。鳥は身そして父よ母は近に済んで

           

 追記その一

戦地から人生最後の二年間の記録の書簡集を、もしそのまま読まなかったら、わたしの中の父の姿はぼんやりとした霧の中に包まれたままだったに違いない。

父の手紙が発見されたときに、何故読むのをためらったかは、未だわたしの心の中に言葉にはならないわだかまりがあったとしか思えない。が、そのわだかまりが何なのかも定かではない。今も。

しかし読む決心をしたおかげで、戦争という時代の渦の中に巻き込まれながらも、強さと優しさを秘めたその瑞々しい感性で、自分を見失わなかった一人の青年の姿が目の前ににたち現れたのだ。

 その青年こそ私の父、32歳の淳之助だった。

2010年11月

フランス・ストラスブールの現代アートフェスティバルの個展会場に、わたしは母の薄紫色の紋付の着物で臨んだ。

無地にわたしが手描きで櫻の花を散らした着物。

母とも一緒に会場に居るようであった。

ヨーロッパじゅうからやって来た会場の入場者は3万人を越えた。

 絵のシリーズの名は抽象で「東洋の誘惑」15点だった。

 追記 その二

秋田魁新報社のコミュ二テイ雑誌「郷」に10年ほど連載させていただいた絵と文

「東京散歩日和」が本になりました。

読んでいただいた方から、青春時代に過ごした東京に出逢い、懐かしく抱いて寝ました・・・とのお葉書をいただきました。

そしてわたしは母との思い出とも重なる幸せもいただきました。

この十年は母が上京して一緒に過ごした時間とも重なるのです。

本当にありがとうございました。

振り返れば一本の道。これまで出逢えたすべての人に心から感謝の気持ちを申し述べます。そしてこれからも歩き続けられる幸せに感謝します。

今一番逢いたい人    それは母と語らう父です。

平成25年夏


追記 Ⅲ

 母とのアメリカの旅から24年後、百子と二人でNYを再び訪ねるチャンスが巡ってきた。

それは高山先生の回顧展を世田谷美術館で鑑賞して久しぶりの先生と出会えた興奮冷めやらぬ時、自宅の電話が鳴った。
それはNYのギャラリーでの展覧会9月開催のお知らせであった。
NYのギャラリーでの展覧会開催は、私の最後の夢でもあったから、先生が天から指図をしてくれたとしか思えないほどの嬉しいお話であった。

そしてその半年後、パリの画廊からのお誘いがやってきた。
これは画家の叔父のリベンジ!!二つ返事で受けることにした。
戦争のためパリ留学をあきらめたが、その後いつか行ける日が来ることを願って、亡くなるまでフランス語の勉強をしていた叔父!

      
 
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             第二章           戦地の父からの手紙

   七十有余年、桐の箱に封印されたままだった戦地からの手紙や遺品。

戦地の父が三歳の私に宛てた一通の葉書以外はこれまで見ることをためらっていたのだが、

母が亡くなって半年、すべては私の手にゆだねられた。

そして靖国の遊就館との御縁ができて後押しをされたこともあって、七十年前の戦地の父からの手紙を

今届いたかのような感動で読むことができた。

出征して故国を離れ遺骨となって帰国をするまでの二年間、親が息子を思い、夫が妻を思い子を思い、

父母兄弟を思い、そして日本と大陸を往来した辛くて切ない百通にも及ぶ書簡。

ひときわ暑いこの夏、この書簡集にむきあい、私は父の最後の二年間を共に生きることができた。

   出征した日が昭和十二年九月十一日、遺骨となって故国に帰ってきたのが十四年の奇しくも九月十二日のことでした)

                                          合掌  

                                                  佐藤弘子(緋呂子)平成二十二年九月

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   昭和十二年          柳原淳之助様 秋田在中      柳原久之助(丘之介)東京在中

                       (注 美術学校を卒業してから白木屋デパートのデザイン室に勤務)

 山中の重ちゃんが東京へ来たそうです。文ちゃんも近いうちに上京するらしいです。

 秋田もそろそろ梅が咲くだろうと思いますが、その前にわたしの梅?をご覧にいれます。

 昭和十二年        秋田市楢山広小路三

               柳原淳之助様                   東京にて柳原久之助

 
(注 秋田に居る弟の久之助が兄の淳之助へ弘子の絵を描いて送る。戦地でいつも持っていた絵)

                                           ・・・・・・・・・・・

昭和十二年十月三日

柳原武子(タケ)様     柳原淳之助  神戸にて

車中で手紙は読んだ。よく納得した。その通り間違いなしだ。大いに意気を軒昂させて充分の活動をして来る。安心して待って居れ。俺も無駄なところには頭を使わぬから。唯「誠心」に神仏の加護するを考えて腦力の節約だよ。(今本當のバナナを食べながら書いている)うまいぞ。余計な世評には毅然たる態度が軍人の妻の必要時の一切なのだ。

明日出帆母国を後に何処へ?(四日)あまり持ち物多くて置いてきたが、何れ書留で。

チョッキは送ってくれ。途中で酒と果物 栗 青豆 等々全く置き所無いまでに頂いた。列車から降りるときなんか持ち切れん程でした。二階に居るが、下では号外が配られて居る。全く挙国一致の軍国風景だね。

二、三日以前にもこの宿に三人泊ったとのこと。七、八十万は神戸を出航あるいは通過している由。宿では明日出航すると聞いて驚いていたっけ。「それでは偉ろうおますな」ってね。秋田県内、山形県辺迄は酒の力もあり大いに萬歳の応酬をしていたが、新潟県に入ると誰も立てなくなった。疲労と声が出なくなり大分アルコールになやまされて・・・。

神戸についたら在郷軍人がラッパ及び楽隊を先頭につけて市内行進。東北殊に秋田健児の力強さを示して威風堂々颯爽たるものでした。只今九時五分前。

小出様にお礼云ってください。(一円)出発の點呼の際面会所で頂きました。

気候風土が変わっているという所謂彼の地に行くんだが、身体の具合最も良好、元気益揚る。

 では母国よさらば

凱旋の光輝燎然たるその日を鶴首せられよ 三日夜九時半     武子様 淳之助              


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昭和十二年    秋田市私書函第二号

牧野部隊佐藤善隊    征途によりて   柳原淳之助

拝復

 小兵入隊以来御激励相成り候

今朝出発に際しては皆様多数御歓送下されまして感激いたし居ります。

暴戻支那譙懲のため東洋平和の為護国の鬼となり皆々の御熱誠に酬ゆる決意です。

備前長船に血を吸わせて参ります。皆様有難うございます。

元気で御多祥の程お祈りします。

少々以上 酩酊して居ります。

・・・・・・・・・・

 昭和十二年十月四日   明日神戸より乗船

柳原庭之助様          柳原淳之助 牧野部隊佐藤善隊

       拝復

今朝(二日)出発以来恙く到着 神戸の前 小野浜に下車。

電車にて林田区細田町二丁目一一八洲崎岩吉方に宿泊。

二日前に中隊長と兵と主計少尉と三名成りし由。仲々の歓待にて恵 せり。

明朝乗船らしい。元気旺盛ご安心を乞う。

廣島にコレラ患者発生の為変更せる由。刺身のごとき生ものは絶対に厳禁。

途中は歓送全く素晴らしく夜間田浦に篝火、萬歳を唱え、又電気にてバンザイを列車の通る直ぐ傍らに大きく立てる等々。

                                                    不一

・・・・・・・

昭和十二年十月八日

はかりや印刷所高橋支配人様       牧野部隊佐藤善隊

外 御一同様                  柳原淳之助

 皆々様の絶大なるご援助御激励に寄り母国を離れ○○に向け航行中です。退屈な幾日かが送られるのです。雑誌が人気物で引張凧。時々オバコの笛が聞こえたりしましたが、今はもうひっそり閑です。

 酒気全く欠乏。気の毒な状態です。もう何日斯のような状態が続くやら。

でも元気です。ご安心ください。

(見るもの無くて神戸の国防婦人新聞 の五月二十日のをなんべんも見ています)

時々秋田の便りが欲しい。御健闘祈上ます。

・・・・・・

柳原淳之助様       柳原ひさ子  

(弘子の写真を淳之介母久子が戦地におくったハガキ、移動の際ほとんどの手紙をを焼いていたらしいが、いつも持っていた葉書)

 

 弘ちゃんがカステラやパンがほしい時 スッケイ(失敬)をやります。パンを持てば頭を下げて喜び、電気はと云えば電気を見る顔で有ります。  エナイエナイバァ(いないいないばあ)をやって笑っています。

・・・・・

 十二年十月四日  北支山海関埜戦郵便局区内  秦皇島守備隊 牧野部隊佐藤善隊

柳原淳之助様          はかりや印刷所 (注 所員有志の寄せ書きの葉書)


・・・・・
 

十二年十月    秋田市楢山広小路 

はかりや印刷所従業員一同様   柳原淳之助     (注 はかりや印刷所で印刷をした出征後の御挨拶)

 
・・・・・・・・

十二年十月八日  秋田県秋田市楢山広小路    柳原庭之助様  牧野部隊佐藤善隊 柳原淳之助

天気清朗にて秋晴れの上天気です。本荘にて石黒さんを探したが見当たらず残念でした。金浦は小隊長の出身地にて大歓送でした。酒入るやら果物等々。

久之助が熱心に引き継いで呉れているのが、何より結構です。一寸上京さして展覧会だけ見せてやって下さい。

チョッキは送らなくとも宜しい。神戸で貰ったから。私製ハガキ持って来ればいいと思ったがもういらない。

寒くなるから皆御身体を大切にして下さい

・・・・・・・

十二年十月十一日  大日本秋田県秋田市楢山広小路三

柳原庭之助様  北支山海關野戦郵便局区内秦皇島警備隊 柳原淳之助

 拝啓   秋冷の候   小兵事 只今秦皇嶋にありて 警備に就き居り候
気候は好く各国の軍隊駐し居り国際上重要の地に有り候
先ずは右御通知申し上げ候
皆様向冷の折柄御身御大切に願い候

・・・・・

 十二年十月十五日  軍事郵便   秋田市楢山広小路秋田局私書函第二号

柳原庭之助様     北支秦皇嶋警備隊  柳原淳之助

拝啓         (横山君カラ便り有らば吾所御一報願います)

出発後の残務多端にて恐縮に存じ候。柳原三郎君は○○駅に、偶行きし兵隊に託し名刺を呉れました。横山君も同列車らしく別の兵から便りがありました。

元気ですか。久之助は丈夫ですか。表記到着第二次日直でした。恐れ入りますが、○・・お願します。私製ハガキ高価にて而も無く困却しています。

近く酒保開設せらるる筈ですが、小兵宛名は「満州国山海関野戦郵便局気附秦皇嶋佐藤部隊」と願上げます。

親戚近隣へ宜敷く御伝言願います。小出様から戴いたから御礼申して下さい。

今日は雨です。何れ又御便りします。

(佐々木君に餞別戴いた人の住所氏名御知らせ乞う)

 ・・・・・・・

 十ニ年十月十九日   北支山海関野戦郵便局区内 秦皇島警備隊内

 柳原淳之助様        はかりや印刷所植字部

                     (注 はかりや印刷所の植字部の方々の寄せ書き)
                                       ・・・・・・・・・・

軍事郵便 十月十九日

大日本秋田市秋田局私書函第二号  柳原久之助様       牧野部隊佐藤善隊  柳原淳之助

冠省    当地は全く秋晴の好天気にて朝と夜は急に冷え込む状態です。皆様 御健祥でしょう。

二三日前には当方でも山には雪が降ったし、霜が下りたりしました。山海関で写真を撮ったから送ってやります。
御笑覧下さい。
    皆々様へ宜敷御願申し上げます。

                                                  拝具

                                                ・・・・・・・・・

 十月十九日 軍事郵便   写真在中

大日本秋田局私書函第二号   柳原庭之助様     北支秦皇島警備隊 牧野部隊佐藤善隊 柳原淳之助

                                中身なし

                                          ・・・・・・・・・・・・

(注 淳之助の母が孫弘子に「ふろしきぼっち」で旅装を整えた写真。母自身も息子の処へ今にでも行きたかったのではと)

                                     ・・・・・・・・・・・・・

 二十四日  軍事郵便   大日本秋田県秋田市   私書函第二号

  大同にて  柳原 生

豊台にて南浦軍醫と會す。御元気でした。

服部新助君(自彊組合に勤務せし)入隊当時の二年兵野呂民彌上等兵等と異郷で會す。

談、又盡くるを知らず。

此の地又天気晴朗絶好の秋日和です。雨は降らず黄塵萬丈その通りです。

元気ですからご安心下さい。また後便にて。只今 大同に居ります。皆様によろしく願上げます。

                                ・・・・・・・・・・・・・

 十月二十五日  軍事郵便     牧野部隊佐藤善隊     柳原淳之助

      大日本秋田市楢山広小路三   柳原庭之助様

拝啓   秦皇島到着以来一向御無沙汰いたし失礼居り候。其の後皆々様には御変わり御座候無く候や。

お伺い申し上げ候。小兵儀以御蔭 無事に御座候へば御放念願上げ候。

 毎日晴天続きにて昼は光輝燦々たる日輪を戴き、夜又皓々たる月、幾千の星の點滅を仰ぎ居り候。

 日に日に皇威の北支に瀰満し東洋和平の顕現せられ居り候。

眞に興亜大道の実現に驀進し居る状御賢察願上げ候。

大同に着するや第一線に最も近く愈國寶八師團の底力を発揮するの時到来せるの感有之候。

孰れ近々移動可仕砲聲銃聲を耳にするを可得哉と御存候。又後便にて旬々御報告申上候。敬具

                                    ・・・・・・・・

  十月三十一日 軍事郵便     大日本秋田局私書函第二号 高橋良敏様 外御一同様

北支陽明堡第四軍事郵便所気附 中村明人部隊牧野文隊佐藤善隊 柳原淳之助

 拝啓    一向御無沙汰致し誠に恐縮の至りです。

もう繁忙期に向かいつつある事でしょう。御苦労様です。小兵は只今表記の処に居り近くに飛行場(日本軍)もあり、早朝よりプロペラの爆音を聞き、ボツボツ討伐です。

お陰で元気です。御安心下さい。何れ又移動することでしょう。その節又々ご報告します。

皆々様のご多祥を祈って擱筆します。陽明堡支那人家屋にて。     拝具

                               ・・・・・・・

大日本秋田市楢山広小路三  柳原庭之助様    十月三十一日 陽明堡にて  柳原淳之助

拝啓

昨日はニケ小隊付近にニ里半ぐらいの部落まで行軍し示威兼討伐を決行しました。

帰りには豚二頭買いお土産としました。

昼は暖かく夜は随分冷えますが、オンドルを使いホカホカです。

本日ドラム罐を求め風呂の準備しました。

秦皇島以来の入浴です。尤も野風呂で木の下を選び素晴らしいものです。

いづれ又前進する筈です。その節又又御報知します。明日から十一月です。

御身体御大切に願います。  敬具

                              ・・・・・・・

 十一月二十日  大日本秋田県秋田局私書箱第二号柳原武子様 

北支大同第四軍事郵便所気付 中村明人部隊牧野支隊佐藤善隊 柳原淳之助

冠省

当北支錞縣ハ一昨日ヨリ雪ガ降リ銀世界ト化シ陽明堡ノ晴天ノポカポカトハ全ク変ジテシマイマシタ。近村及山ノ根ニハ約千名ノ敗残兵居ル模様トノコトデス。昨日討伐ニ行キマシタ。此処ニモ暫ラク居ルコトト存ジマス。

内地ヨリノ便リハ一本モ未ダ手ニセズ。

昨夜慰問袋ガ初メテ頂キ大賑デシタ。今日ハ待機ノ状態デ皆礼状ヲ書イテ居リマス。

奈良県吉野郡大淀町杼の桧垣本、畳平吉、新宅安吉、羽川庄太郎、三家族合同ノ作成ダヨウデス。手紙が数本ト小学生ノ綴り方、画、折リ紙細工等仲々慰安ニナリ心気ガ爽カニナリ、軈テハ内地カラノオ便リガ来ルコトト待望シテ居リマス。

清太郎君、正君モ、豊チャンモ勉強シテ居リマショウ。皆様オ変リハゴザイマセンカ。

草薙様此頃如何デス。向寒ノ折柄御大切ニナサレマセ。

オ父様 オ母様 久之助君 弘チャン(太ッタローネ)御元気デスカ。

茶町清之助様此頃如何デスカ。モウ大丈夫デショウ。以御蔭第一健康デス。皆様ニ宜敷ク伝言クダサイ。針屋サン時々来マスカ。又其ノ内別便ニテ申上ゲマス。

北錞縣支那人宿舎ニテ    柳原淳之助

柳原武子様

勝治君出征セラレマシタカ。三郎君 横山君カラ便リアリマスカ。

(注 清太郎は武子の弟、正、豊子は武子の甥と姪。この三人も戦地からの淳之助の手紙を沢山保管していた)

                          ・・・・・・・・・

11月20日 十二年十一月二十日

軍事郵便 牧野部隊 険閲済北支乙集団牧野部隊佐藤善隊陸軍歩兵少尉白瀬知燈   柳原淳之助

大日本秋田局私書函第弐号柳原久之助様  

お便り有難う  

五月晴れ。田園 銃後スケッチ興趣旺溢す。秀芳,、伸 先生の傑作。画信結構です。

三郎さんもう帰られたでしょうか。東京と名古屋へ礼状差し出しました。

拝啓

草薙さんからお手紙を頂いたが土崎から通勤せられて居りますか。碇谷君から土崎に引越して毎日汽車通勤在学中の若さに帰ったとか。土崎の寄せ書き、高柳さんからのも頂いた。加賀谷章之君(長の下の)出征せるとのこと。横山君 柳原三郎君より又大川喜助さんから何かお便りがありますか

皆健全でしょう。弘子は大きくなったそうですね。抱かれたりおんぶしたりして居るようですね。

家からの便り未だ一本も手にせぬが皆元気でしょうね。参考品(支那の印刷物)同封します。昨日の手紙皆へ見せて下さい。

碇谷くんの便りには隣の矢守様の柿が大分色付き渋柿都知りつつも食べたくなる頃となった云々。當代縣日中好晴にて秋晴れの感あり。朝夜は寒冷全く異なり。

先発で来たので随分良い宿舎につき居り 、十五の青少年を当分使用人の腕章をつけさせ、水汲み、薪割り、掃除、火焚き食器洗い等、それから大小便の代わり まさか!  顔馴染みにて何処へでもつき歩く。

荷物はすぐ持ち歩く。昨夜の点呼報告後中隊当番来たり。既に閉めたる門を開けたるに分隊の居所不明教え呉れとのこと。早速(你ニ―  お前ということ。支那で)を連れ提灯を持たせ闇夜を案内せる如し。六時以後は絶対に支那人通行せず。通行せば射殺してもかまわぬことになって居る。

五日の夜はたばこ(ほまれ)明治キャラメル各半箱宛て下給される。自分は煙草吸わぬので、キャラメル一箱とりたり。けれども皆でキャラメル食ったから同じこと。

先月二十八日錞縣にて衛兵司令。翌二十九日下番 三十日午前八時十分先発として代縣に入り十二月一日部隊到着。宿舎を案内し午後三時半日直、翌日正午交代。

その間日誌書く暇も無かった程だが些かの疲労もせず元気旺盛なり。心配沒用(・・・・)柳原淳之助

武子殿
                          ・・・・・・

十二年十二月十七日    軍事郵便

大日本秋田市楢山広小路三   柳原久之助様   北支綧縣にて柳原淳之助

冠省

お便りが大部参りました。

十月二十五日(久さん)十二月十七日(お父さん)十月十八日(連名)皇軍万歳御健闘を祈る。

十月十六日(お母さん)等々。それから小包到着しました。

草薙さんから十二月二十五日附きのが来ました。

漸く大同も整理がついたようです。

内地と変わらぬ位日本人が多く入り込んだそうです。

何よりその下駄、羽織が見られ電気がついて、バスが通り、交通巡査が居るそうだ。

我々大同に居りし頃は全く寂寥、淋しかったんでしたが、二か月余りで大した化け方です。

化けたんでなく、本当なんです。

今朝四寸位雪が積もってました。まだチロチロ(十一時)

注(二枚目無し)

          ・・・・・・・

十二年十二月十九日

大日本秋田市楢山広小路三 柳原久之助様  

北支大同第四軍事郵便所気付 中村明人部隊牧野支隊佐藤善隊

柳原淳之助

冠省        代縣中学生の作品二枚送る別封にて。

去る十二月十二日夜慰問品としてサンデー毎日贈らる。而して十二月十二日号なり。

「太原の警備」太原付近の部隊の雪中行軍等、写真あり。

新聞は皆旧聞なれども是丈はなんだか新しき様な気がしたり。

但し我々の手に入りたるは十八日、内地の或る一部を覗いたる如し。

誰か何処かで手に入れたるか豆講談本(英雄豪傑文庫)!宮本武蔵を読みてエヒラ〳〵笑えるあり。

四十に垂んとする御人体とは一寸受け取れぬかも知らない。

サンデー毎日「小説」ユーモア乳房にはくすくす喫笑しました。

何か読みたくなったよ。支那には本あれど珍文漢文一向面白くも何とも無い。

アハ・・・・。

(元旦は南か北の城門で下士哨を務めることだろう)明日は西門の下士哨勤務。

大分寒くなつて来た。秋田は年末で多忙だろう。葉書でも手紙でも待っているよ。又後便で。

拝具

         ・・・・・・

柳原庭之助様宛

柳原淳之助より                  封筒のみ2通有り
 

26  昭和十三年 

十三年正月三日  軍事郵便

大日本秋田市楢山広小路三柳原久之助様

 北支大同第四軍事郵便所附 米山部隊牧野支隊佐藤善隊 柳原 淳之助

拝啓

吟さんからのお便り十月の差出しらしい。面白いことが書いてあった。

早川様宅でお母さんと話をして来た。とか、身延山へお参りに行かれたのでしたか。

今度は大分落ち着いて手紙も小包もどんどん新しいのが手に入ります。

魁ありがとう。十四日迄頂きました。大同へ  選んで受け取りに行きます。

汽車は無し。自動車で五六日で帰って来ます。

毎日その手紙を待って居ります。

啍縣(ゴワイシェン)は県庁の所在地で相当な処らしいが、何しろ山中で不便なんです。

十二月一日降っただけでそれっきり雪は降りません。

朝は寒く、午前六時は零下十五六度ぐらいです。

点呼は七時ですが、未だ暗い。晩の七時は未だ明るいでなく暗いであるです。

昨日二日三井合名会社の社員及び家族よりの慰問袋到着。

日の出九月号あり。またはアサヒグラフあり梁川庄八の豆講談あり、滑稽落語あり、大いに楽しめます。

近日中一大討伐を決行しこれで北支も一まづ片付くことと思います。

馴れない仕事を代わって呉れ御苦労さまです。何よりも身体を大切にして無理せぬ様。豊市君、碇谷君によろしく。

高橋様松岡様加藤様等々皆々様のご健康を祈、ご多幸をお祈り致します。

忙しいだろうが、何か御便り下さい。異郷に在ると何人でも故郷母国の物は珍重し懐かしさを痛感します。では皆様によろしく。

正月三日淳之助

久之助様

敬具

27 軍事郵便 十三年一月十日  大日本秋田局私書函第弐号 柳原庭之助様

 北支大同第四軍事郵便所気付米山部隊牧野部隊佐藤善隊 柳原淳之助

冠省

六日七日の大討伐は七日八日に変更。予想通りの激戦が展開されました。

八日午後四時中隊無事帰嶛しましたが、すぐ移動。

田○○とかいう処に中隊長以下第一第二小隊の主力九日出発のことでした。が、これは準備のかんけいや、疲労の為本十日駐屯しました。

小兵は帰嶛後日直、中隊が移動するし、残った我が三小隊は又引っ越しで中隊の中に第一、第六(自分の分隊)本部に移動。多忙。

書類が一通り引き継ぎとなり多忙でした。

明重一日は一泊の予定で白○村に討伐に出かけます。

零下十六度でした。寒さは大したことなく、雪がないのでもう耐え切れぬことはない。

十六日迄は殆ど寸暇も無いようです。

安藤政三、有賀政治郎両氏の十月十七日祈願祭スタンプのはがき大手鎭討伐の前夜、落手ポケットに入れて出動しました。

引っ越しも終わり日直も交代し入浴してホット一息す。一ヶ小隊で中隊と殆ど同じ仕事をするんで多忙のことは解り切っています。大いに奮起し御奉公の誠をささげる次第です。

中隊の行かれたところは、小部落で時折共産軍の略奪に遭い、又友軍の宿泊所でもあり、敵の巣窟であり危地です。電話無し、全くの孤立状態です。

我が小隊の勤務討伐は相当激しくなります。先日は城内で下士哨兵(我が中隊)夜間狙撃され右の中指骨折。本日大同野戦病院へ入院しました。

嶛縣城内でも兵が移動したので油断が出来ない状態です。

十一日は蔵開きですね。

弘子は二つになった。父さんも二つ アハ・・・・。

移動、先発の時の日直は一手販売のようです。

お陰で不思議な位丈夫になりました。流石の大友軍曹も大○鎭の帰途大分弱ったようでした。点呼には代理を出せる程でした。七日の夜の警備は鉄条網、拒馬等障害物を造りすぐ下士哨に服務。翌朝の攻撃にも大いに元気でした。

御安心ください。皆様によろしく。   十日夜     淳之助

父上様

草々        古今図書集成   中華書局 同封


28  一月十八日 軍事郵便

大日本秋田市楢山広小路   柳原久之助様     北支乙集団(大同第四)牧野部隊佐藤善隊   柳原淳之助

冠省

山西は未だ○○ですが、殊に啍縣は原手鎮間は余程他地方より、共産カブレ、敗残兵の出没激しき処と存ぜられます。

正月七日八日の大半鎮方面討伐大激戦後は幾分その襲撃の度が薄れかけたようです。

啍縣の東方約一理の川に掛けた橋が焼かれ約六里山の中の白石村に有力な機関銃を有する共産軍が夜な夜な密に出て部落を襲い十六日頃より橋に高粱を積みて放火せるらしく。 

この十六日は大分上天気で川はセセラギ初春を思わせる程麗らかでした。

敵も今のうちに橋を焼けば川は深くて通行出来ず良い具合なりと思ったらしい。

ところが、十七日は大雪、川は悉く皆凍結し午前九時出動せるときには、もう通行できるように頑強に氷が張っていました。

橋の焼けて蒙々たる煙を利用して煙幕下に渡川しました。

共産軍も敗残兵もこの糧祑欠乏で死物狂いの出没です。

討伐せば必ず其の部落を焼くんです。土民(良民)は本当に迷惑ですよ。

焼かれるのが怖いんで皇軍を見つけると大きな竿に日章旗をつけて歓迎?に来ます。

何れ又。城内衛兵上番で失礼します。        柳原淳之助

柳原久之助様

29 十三年一月十五日

一月十五日  

柳原淳之助様      柳原久子   弘子の写真十二年十月十三日写す

  (注 淳之助母久子の自作の絵)



30  葉書    故国遥拝

(宛名は不明)

柳原淳之助

拝啓厳寒の折柄から御変わりありませんか。

定年   気の毒と拝察いたし居ります。

その後は御無沙汰申しました。御許容下さい。

私は相変わらず元気に順徳に於いて警備の任について居りますから、何卒ご安心下さい。

時々悪族討伐に出動します。近日順徳出発の模様です。

次期作戦に備えて戦友一同意気込んで居ります。

私も全力を尽くし御期待に添いたいと思って居ります。

北支は日一日と平和な都が建設されていきます。

順徳は素晴らしい賑やかさを現出して居ります。

気候は連日好天候に恵まれ近頃は春らしい気分がして参りました。

雪の無い冬を此の地に送って居ります。

 寒さの折柄御身体を御大切に。さよなら

陣中に閑を得て

31   二月五日 軍事郵便  険閲済み

大日本秋田市楢山広小路  柳原庭之助様

北支乙集団牧野部隊佐藤善隊白瀬隊  柳原淳之助

前略

本日は雄水会(商業高校)泉谷君、江畑顕、渡辺新助、藤田武治氏(豊島町)松岡様、及び一月八日附きの葉書頂きました。小川潔君よりは魁を送られて居ります。

画仙紙も其の内到着することでしょう。

何しろ中隊は田家荘に移地しなかなか会う機会が少ないのです。

磯崎とも殆ど会うことがありません。時折連絡するように便りして来る程です。

江畑様は中々熱心なようです。

何処までもやります・・・・と特別な書簡が謄写に封入されて居ります。

お陰さまで軍務に精進しています。

胃潰瘍は全く忘れてしまいました。

皆々様へ宜しくお願いいたします。

二月五日午後十一時

匆々

32   昭和十三年   弘子が頂いた人形の絵(注 久之助画)の葉書

柳原淳之助様

柳原久之助

小山内様から頂きました。可愛らしいマリ子人形です。弘子のよいお友達です。

色は実物通リ大きさは一尺位です。友情の美しさは格別です。

mariko.jpg  

33    二月十四日

軍事郵便 険閲済 白瀬知燈

大日本秋田市楢山広小路三       柳原久之助様

北支乙集団牧野部隊佐藤善隊白瀬隊  柳原淳之助  諄縣にて

冠省

小包が到着「二月九日」手紙画仙紙類(二月二一日)頂きました。

惇君長田潔たより一枚書きました。

「千古未曽有賀業、皇軍武威讃八絋 」と同警察隊長にも依頼中です。

工業指導所の小河 君から{魁}を毎日送られ居ります。

電話にてでも御礼申して下さい。

最初に出され十月二十日のを今回拝見しました。

小野寺右衛門の翁の逝去、赤星雲城先生の葬儀のことなど。

{軍歌集}立派ですな。随分忙しいことと思います。

富田様よりの{家の光}二月号頂きさっそく読んで居ります。

戸田久吉、能代の武島皆さんから賀状頂戴しました。

御自愛専一に願います。

近く交代するかもしれません。拝具

 

34  二月十六日

大日本秋田縣秋田局私書函第二号   御中   久之助様

北支大同第四軍事郵便所気付

中村明人部隊牧野部隊佐藤善隊  柳原淳之助

北支の栗名月は秦皇島でハッキリ明瞭に見えました。

羊羹御馳走になりましたよ。中隊で拵えたんですが、誰も食べなかった様です。

大分茶町が遠いんで。(注・ 砂糖が少なくて甘くないこと。茶町に砂糖屋さんがあったようです))

昨日(十六日)の月はボンヤリでした。その前(一月十五日)の夜は朧であったが、時折全貌を見せてくれました。丁度下士哨服務中で高い城門の上で眺めました。月は変わらない様ですね。雲が来ると見えなくなるなんて、不思議ですよ。支那はね。

身延七面山の印を捺したはがきは一寸珍しいんですね。箱根の山を見物されたようですね。だれかこの北支の山を見に来ては如何。御案内しますよ。では又。淳

久之助様

秋田萬歳(魁)発見!

よくまた描く時間がありましたね。これからが大変忙しいんですよ。皆様によろしく。

高橋さんから出羽三山の御守り頂きました。お礼を申して下さい。

 山の宛名、三郎君、佐々木豊雄君、高橋勝治君の居所を知らせて下さい。

加賀谷君は満州牡丹江省   前田部隊本部にいる旨、長の下のお宅から知らせて下さいました。

読売新聞其の他多数送って下さいました。

大川喜助さんの宛居所お知らせ下さい。

35    二月二十一日    葉書

大日本秋田市楢山虎の口新町十七 冨田鶴太郎様

北支乙集団牧野部隊佐藤善隊白瀬隊  柳原淳之助

拝呈

愈々御静穏に渉らせられ邦家非常時に際し御盡詳感佩いたし居ります。

御心にかけられ{家の光}二月号有り難く拝受いたしました。

ドット歓声。この珍しき慰問品!に対してです。

早速集合。鳩首いう言葉どうり・・・。

共匪は此の頃は夜間はおろか、昼日中出没します。

只今山砲隊出動、発砲しています。

ご自愛第一に願います。

拝具

36葉書    宛名ナシ

冠省

先日は木内強様より書簡あり。家郷の歳末風景的市民の緊張振りを詳細に知らして下さいました。

英作氏は大日本刀剣会会長秘書として渡支せられたとのこと、啍縣に見えられませんでした。残念です。

横山君、柳原三郎君勢は○○方面に活躍せられて居ります。

二月十八日に撮ったのが本日(三月二日)出来て来たので送ります。

技術は佐々木君より数段落ちています。

匆々

37  十三年三月二十五日 絵ハガキ  軍事郵便  険閲済み

大日本秋田市楢山広小路三

文化堂活版製造所 はかりや印刷所  御中

北支乙集団牧野部隊佐藤善隊白瀬隊 柳原淳之助

拝啓

その後御無沙汰いたしました。

皆々様にはご壮健にて御活躍なされ銃後の護りを固められますことは信に皇国の為慶福の至りに存じますと共に御辛労の程万腔の謝辞を申し述べます。   小兵ことは御蔭様にて頗るハリキリ居ります。御休心下さい。近く皆様と御合いすることが出来るからです。拝具

 

38 三月二十六日  絵ハガキ  軍事郵便 険閲済み

秋田市楢山広小路三  柳原久之助様

北支乙集団牧野部隊佐藤善隊白瀬隊 柳原淳之助

永い間の不信のため内地では或は全滅?と懸念せられたかも知れませんが。

去月の二十一日に内地よりの便りを手にして以来まだ見て居りません。

自動車も汽車も通らなくなり時折電線が共匪に悪戯され一時は孤立をと思われたが、

今日か明日は手紙が久方振りで見られるようです

内地にて共に語るのも遠からずと思われます。

三月二十六日    啍縣にて


39  三月二十八日  軍事郵便 険閲済み

秋田市楢山広小路   柳原久子様

飯村部隊佐藤善隊白瀬隊  柳原淳之助

拝啓しばらくご無沙汰いたしました。

お陰さまで元気です。

先達て本妙寺様で国 会があり北支慰問の鹿児島師が近く出発されるようでした。

中村様や賀内さまが居られたところに居ります。

豊島君は四日ばかりで○原に行きました。

武子よりの手紙によれば、四戸様が東京に転任とか。中村様の奥様が見えたとか云々。

未だ失礼いたして居ります。

何しろ御承知の通りの有様で全く何処へも欠礼いたし居ります。

小山内君や小河君の御芳志には全く感激いたし居ります。

同窓泉谷、岸(山崎洋服)丸山(羽後銀行)牛島(四十八馬喰町出張所)遠藤(舟大工町)

阿部(秋田銀行)佐々木(市議)連の熱誠に感偑している。

町内の皆々様へよろしくお願いします。

御壮健で銃後の御活動なさって下さい。

弘子はもう下駄を履けるようになったでしょう。匆々

 三月二十八日   柳原淳之助

母上様


40   四月二日     軍事郵便 点検済み

大日本秋田市楢山広小路三   柳原久之助様

北支乙集団牧野部隊佐藤善隊白瀬隊    柳原淳之助

吹雪の子守唄ないので何だか冬が冬らしくない。

母の五人描いた弘子の画は全部一緒です。

(注 解読難で葉書をそのまま入れます。)


41 四月六日     軍事郵便    点検済み

大日本秋田市秋田局私書函第二号

御中

北支乙集団牧野部隊佐藤善隊白瀬隊  柳原淳之助

一月五日時の弘子の写真や画が沢山手に入りました。二十本ぐらい。

二月十六日が一番新しい方でした。

山崎洋服点の岸文吉君(雄水会員)よりは牧野部隊凱旋の魁の記事について深刻な間違いだ云々・・・。

誕生日、雛祭り、明日は花祭りetc.

相馬正一、横山、佐々木典 、大川喜助、熊谷久之助の諸氏にハガキ一本宛て飛ばしました。北支の空を何時何処を通って行くか?いずれ着くことと思います。

土橋善衛さん、針生、小川君(航空便で載った)柳原敬吉(慰問袋を頂く)。吉田喜助(新聞送って来ました。分会の理事(共 住宅の集金に来る方)加賀谷長之助(新聞、宮城県の竹駒稲荷の御護を一袋)神戸の洲崎岩吉氏(手紙と小包)等など七十八九通書きました。家へはどうしても遅れます。我が分隊の家族の方よりお手紙を頂きました。

この手紙を書いている時敵襲!山砲隊出動! 是至付近まで ハシレー・・・。当小隊の同隊は

襲急○○城内・・・発射。

ツ―ドン轟きたる砲撃を聞いています。四発入りの弾匣六人で運搬す。又一発 又・…三時四十分

十七発数は潰走した。

名刺依頼されました。豊島君のは船川を除き アケタママデ印刷スルコト。済んだのは不要です。

(日直です)

柳原淳之助 柳原庭之助様

42  四月八日  ハガキ  軍事郵便  点検済

秋田市楢山広小路三     柳原久之助様

北支乙集団牧野部隊佐藤善隊白瀬隊     柳原淳之助

冠省

画信有難うございます。いかのシオカラは最も賞味せられました。

缶が壊れて惨状を呈していまして何が書いてあるようだが、サッパリ不明。何方からの贈り品かお知らせ下さい。

槍目先生、船木先生、川和田先生に一寸一筆いたしました。

船山画伯、山田画伯に宜しく。

熱海の柳原、土崎の石崎、神戸の洲崎の皆々様から有り難い小包頂戴いたしました。 不一 
 

43  四月八日  軍事郵便   点検済   白瀬知燈

大日本秋田局私書函  第二号 北支乙集団牧野部隊佐藤善隊白瀬隊  柳原淳之助

拝復

分からなくなって了った程に以前の秦皇時代の植字部の方々の寄せ書き。加藤様の{隆}君御誕生の報せに接しました。遅ればせ乍ら御祝辞申し上げ隆君の御出世をお祈りいたします。

何しろ秦皇島から所々を遍歴して漸く四月に手に入ったのです。字も相当古色を帯びて辛うじて読める位、然し、当時に記憶が呼び戻され興味又津々たるものがあります。秦皇島到着第二日日直でした。

郵便物を秦皇島○駅まで持参し、街の岩谷医院(勿論日本人)に衛生兵が寄っていたので、訪ねたり。保安隊の素晴らしい敬礼を受け乍ら・・・。

日本人の経営なる雑貨店○一焦点にいったり。渡支最初の時計屋(チョンピヤオン グー)(鐘表舗)で修繕を依頼したことども・・・。

警備隊の向かいにフランスの兵営があり奇妙なラッパに聞き入ったり・・・。人力に乗り十銭で威張ってみたり・・・。Ect.

啍縣にはもう蠅が跳び廻ってサソリ蠍 (絵が描いてある)が出ました。これは猛毒の所持者です

これにやられると生命は幾らあっても堪らん。

菠蓬草が食べられる頃になりました。雨が時折降ります。 ドロドロとなり。 

この脅威者サソリに誘われたか某将校螫され手術したのは遂二三日前。幼虫はポツポツ姿を表し居ります。

家からの小包は全部到着。なんでも同時に六つばかり。いかの塩辛は最も賞味された。

連絡なくて品切れ中の酒(酒保)朝鮮人(否日本人、半島人)の経営による。一升(一富士)四円なり。全く酔えんです。三升で十円は突破しますよ。チャンチュウらは内地の焼酎以上強い。

支那では小盃でチビチビ。勇敢無比なる我が兵士は大碗でゴクリゴクリ。

時には砂糖を入れてカクテールにするんですが。

このチャンチュー、キツイので腸を破ります。穴があきます。これで酔うものなら、腰が痛くなる。食は不振となります。

これにあてられると、香を嗅ぐのも嫌になるらしい。けれども上戸の勇士は又いつの間にかはじめます。

皆々様へ宜しくお伝え下さい。         不一   淳之助   柳原庭之助様

44 四月十三日  軍事郵便 点検済 白瀬知燈    大日本秋田市秋田局私書函第二号  柳原庭之助様

北支乙集団牧野部隊佐藤善態白瀬隊  柳原淳之助

冠省

愈々山西省は約半歳の討伐、警備を終え河北省石家荘に移動することとなりました。準備に忙しいことです。昨夜より今朝まで本部衛兵司令をやっていました。手紙は大部分焼き棄てマシタ。石家荘で○○の任務?に就くことになります。○○を御想像下さい。これが帰還となるプロバミリテーが多いのです。アハ・・・。毎日朗らかです。

汽車は袋岳鎮まで、南は原平鎮まで。機関車は船川のを土崎工場で改造せるものなり・・・。

惜しくも病没せる長野の佐々木武太郎氏の霊に目を瞑りて合掌せり。気の毒のいたり。善隊只一人の犠牲者!遺憾のいたり。太原の病院にありし日の大 鎭の大討伐のありさまなど繰り返し。夢に・・・・夜な夜なうなされしとのこと。其の部落は猛烈な抵抗をした。五歳の小児まで・・・。抗日の強烈な所でした。カラは命ぜられ堅く捜査をし、放火をなした。火をつけると消火。

これを数回繰り返すうちに短気な彼は短剣でおどしたが、仲々きかぬ。遂に刺し殺す。この有様が脳裏に深く刻まれていたらしい。

彼の冥福を祈る。三月十八日死去せしと。四月一日通知ありたり。

五月初旬は懐かしき皆々様と会談出来得るよう存ぜられます。若しかこの手紙より早く行くかも・・・ワカリません。

皆々様へ宜しくお伝え下さい。


         不一   淳之助
    柳原庭之助様

45 四月十五日   軍事郵便  点検済  白瀬知燈

秋田市秋田局私書函第二号  柳原庭之助様

北支乙集団牧野部隊佐藤善隊白瀬隊   柳原淳之助

 

拝啓

本日正午から日直。明十六日交代兵到着 十七日交代なり。

十八日移動、正午、太原・・石家荘・・彰徳と南下するらしい。

準備に相当忙しい。

半歳の山西省より河北省へと移動。之又心の晴れるを禁じ得ぬ。

汽車があり、電話がある地へ行ける云々・・・。

或はこのまま帰還になるやも知れず。

最強の五万ともいうべき意を奮い気を張り御奉公の誠を捧げます。

皆々さまの御労苦を拝謝し御多幸を切に祈ります。

 不一
            

   昭和十三年   

 月 日  軍事郵便 牧野部隊険閲済陸軍歩兵少尉 白瀬知燈

大日本秋田局私書函 第二号  柳原久之助様   北支乙集団牧野部隊佐藤善隊白瀬隊  柳原淳之助

小山内君の便りによれば長尾君の結婚せる噂あるとか。

泉谷先生より隈本、鹿児島、ほうめんよりの土産話に家の背後から火が出たので、駆けつけた云々。何処でしたか。損害は無いとのことですが

病気で休まれて居る方々、榎様、田中様、林様、高田様、藤原様、それから草薙様、早く治癒するように祈ります。

新陳代謝の各人の御壮健をも祈ります。槍目先生より激励の御葉書ありました。名刺は到着いたしました。

それから忘れていたが雄水会(高等学校に)会費納めてくれるよう。泉谷先生から聞いて下さい。年二円 昨十二年より五カ年間)と思いますが、佐々木君か、碇や君に聞けば解ると思う。

弘子の筆跡判読す。「トウサン」。

洋子さん、斎さんは大きくなられたことでしょう。高橋叔母さんから丁寧な御書簡を頂きました。

再三拝読、その含蓄大なるを痛感いたしました。ガーゼ襯衣(肌着)着し忽ち着用いたしました。

去る二十五日茷隊の村井伊藤亮君連絡に来られ(思いがけない会見でした)暫し四方山の話があり、横山君の戦死を本当かどうか半信半疑でしたので、所持せる新聞の切り抜きを見せたら‘ ウン’ と唸っていました。

全く驚嘆感慨無量の態度でした。

陽明堡以来の会見で懐かしき、次から次と話しの盡くるを知らぬ様でした。

楢山が火事にあった云々。判然と知らぬらしかった。少しも知らない云えば間違いかなと打ち消した。

これが泉谷先生よりのことだろうと思ったが。

某社長令息 重雄君の瀟洒なヤングエンジニィア姿と三郎君の素晴らしいガッシリした颯爽たる姿がよく目を引

近く写真が出来ると思うが次の連絡までは一週間もあるだろう。

そのうち七月上旬頃送れるかと思う。

加賀谷さんのお宅で一緒になった佐々木邦義君は元気で居られます。

同窓(雄水)の高橋政雄君(保戸野の酒屋)が大阪の病院より退院。秋田へ向はるる由。

「秋田」六日だが、鷲尾女史より贈られました。

魁は引き続き小川氏より頂いています。御礼申し上げて下さい。

金雞奥蟲薬の威力により蠅は漸次少なくなりました。一切害蟲奏効如伸とあります。

御壮健にて御活躍の程、切に御祈りいたします。お陰で非常に元気で服務いたし居ります。{銃後美談集}拝見しました。仲々ポイントが秀逸デス。献上本は如何に立派に仕上がったことでしょう

時折雷雨があり。涼風萬石身を廻るなんて気が檄然と湧きます。

蝙蝠にしばし宿かす哨舎かな(驟雨にて)紋白は跳び舞い甍陽炎へり(雨斉れて)16日

久之助様    淳之助

豊市君の手紙確かに落掌しました。写真コンクール佳良の成績とか。

金照寺山の三郎氏の銅像前は確かに良く撮れました。撮るばかりでなく又撮られるのも技術を要しますね。

豊市君の二枚の近況献本のこと等々、皆々様の活躍の状況がよくニュースされて居ります。手紙は再三四、頂きましたが、一々御返事出来ず御寛容下さい。

健康第一、野球よし、ピンポンまたよしです。カメラのハイキングルこと又良しです。

紫外線の恩溶又結構です。草薙さんは如何ですか。皆さんに宜しく。

母上様     淳之助

水谷の叔母様と令息正夫さんが来られたそうです。清之助様の撮られた当時の記念写真(茶町)の菩提寺での二枚拝見いたしました。御健やかなお姿を拝し御喜び申し上げます。

久之助は活躍されて居るようですが、隙を見て外気に触れさせて下さい。馴れぬ仕事を余り詰めると良くないから。

商交会より三吉神社のお守り、記念写真が同封慰問文が参りました。礼状は出しました。

元気ですからご心配なく。その内写真を送ります。

では又お便りいたします。ご自愛専一に願います。
 
   
 (注 弟の久之助が母久子の写真を送る)

45 四月二十九日 軍事郵便 飯村部隊       ハガキ 破損有り

柳原久之助様    淳之助

春はもうそろそろ夏に推移をなしているようで

天長節を

判読不能)

45

 四月三十日  軍事郵便 点検済

 大日本秋田市秋田局私書函第二号 柳原庭之助様

北支乙集団牧野部隊 佐藤善隊 白瀬隊   柳原淳之助

前略

四月十一日附き葉書、陽泉にて落掌拝見しました。

昨年十月御送金被下さいました振替は、去る二日の日、啍縣にて返送せるにつき既にお受け取りのことと思います。

二月三十一日以後三月一杯四月の初めまで音信なく孤立でした。

小川君からは毎日魁を恵贈されて居ります。四月十二日の新聞が今日(四月三十日)見られます。

陽泉には柏崎より早く渡支した海老名部隊(山形)が居り、牧野の或る一部と交代しました。もう彼等は夏服で洒々しています。此処に二か月も居るとか・

野重(野戦重砲兵)を護衛行軍せる中隊は明日石家荘到着の筈

残留の一日は実に長い感じがします。

軍慰殿の手厚い治療により今日はとても楽になり附き添いはいらなくなりました。

関節の腫れはズットなくなり痛みは殆ど感じなくなりました。

頗る元気です。ご安心ください。

蠅は塘沽上陸以来で驚くことはないが、でも実に五月蠅いです。

南京虫は此れ程に感じなくなりました。鈍感になった? 咬まれても腫れ上がらなくなった。

蒸し暑いにはチット参ります。

手紙は二三日で一回位見られ、実に結構です。五日前の新聞が一部十銭で買えます。

城壁の無い街です。啍縣の城壁、太原のそれを思えば一寸変です。

石炭は上々の無烟炭です。我々の宿舎(兵站の兵舎って方が正しい)で一尺四方位のを砕いて使用しています。勿体あるようです。

PCIRONWORKSの大煙突の中空に聳え立ちしケーブルがあり採鉱せる鉱石ががどんどん運ばれ精煉されます。鉄、石炭ナンテ本当に見せたいくらいです。

土崎のパルプ、秋田の硫安大いに期待しています。

皆様のご健康御清福を切にお祈りいたします。

四月三十日    陽泉にて淳之助      柳原庭之助様

山海関郵便所宛て送付せられたる振替は四月に入りて啍縣にてまだ受け取らぬかとのこと、実に驚きました。未着につき仙台の受取人領収せざる旨御返信なされ取り消され度御手数乍願います。

四月三十日   北支陽泉 柳原淳之助      柳原庭之助様

46  軍事郵便 牧野部隊険閲済 陸軍歩兵少尉 白瀬知燈

大日本秋田局私書函第二号     柳原久之助様

北支乙集団牧野部隊佐藤善隊 柳原淳之助

芳賀先生よりメ―ゼン 氷砂糖 ゆであづき おでん みつ豆等の缶詰類、日用品沢山頂きました。小川潔君より長野、名古屋よりの便りあり。熱田神宮護符同封されました。

清之助様から近況ニュース「技術の優秀さを発揮せられて遺憾なし」です。

Q.DONの傑作ホームラン・ヒット待望。

カメラ・テクニックお手並み拝見したい。

野球早慶戦(郷土の中高戦)パチリ一枚所望します。

槍の目先生に宜しく。

47 軍事郵便 点検済   写真在中

大日本秋田市楢山広小路三  柳原庭之助様

北支乙集団牧野部隊佐藤善隊白瀬隊 柳原淳之助

冠省

四月十四日附き五十嵐東日支局長殿よりご多忙のところ丁寧なご慰問状を賜りついでの斎お礼申し上げて下さい。

海老名部隊副官を長谷川久蔵君に連れられ訪問。

鈴木宥運少尉(米沢の和尚さん、現役当時再三遊びに来た。

浄土宗の日曜学校に行かれた人)拾年振りの会談数刻、昔の若さに取り戻され、追憶談に話が咲きKは、Eは、IはECT.淳ちゃんでまだ呼ばれていた。

彼も四十に近い頭のテッペンに髪の薄明を見せていた。

新聞の切り抜きを見せたので、読んでみると、副官殿の見事な落馬とある。実にあのときは、痛かったよ。刀の鍔でアパッを打った。笑いどころでなかったよ。

大隊長戦死の為正月帰郷せりと。

家族の写真を見せたり。大分膨れたネといったら宥運和尚、布袋さんのような腹をゆすぶって、七十五キロもあると洒々としていた。

二十貫の壮年短躯! タンク。

お陰で足は完全に治癒した。もう大丈夫です。ご安心ください。

ット忘れた。鈴木副官 と対談中、ノックして這入ってきたのは胸に「海士飯野」の白布をつけていた。

副官が紹介した。こちらが秋田のはかりやさんだよ。彼は不動の姿勢で「いつも見えるのはオトッツアンしか」ハハ・・・・。

軍人になると解らないものだ。我が柏崎より少々早く召集になったとか。

山形市だとのこと。顔には見覚え無い。

山中重治君より便りあり。気象学に勉励しているとか。土木からの転向。大いに期待する旨返事を出した。

48  軍事郵便 点検済

大日本秋田市楢山広小路三   柳原久之助様

北支乙集団牧野部隊佐藤善隊白瀬隊   柳原淳之助

四月十日附き、上京中のお便り本日拝見。舟山氏の筆跡も見え嬉しく拝見。

一緒に小川よりの魁に出品目録が載っていた。・…。

出品されたのを知り愉快なり。

素雲氏よりは度々頂いて居ります。御逢いの折宜しく申し上げて下さい。

五十嵐友司より三吉神社梵天奉納実況絵葉書を頂きました。

ご多忙のところ御心にかけられ厚く御礼申し上げて下さい。

秋田美術は盛大でしょう。

林、勝平、貝塚の諸氏にもよろしく。

吟さんよりも 数回内地便りあり。実に痛快なり。会ったらよろしく。

営林局の用件で一年振りの帰京?目新しき感じがするでしょう。

英仏がエチオピア併合を承認するようになったようですね。

曇り日、人形、大謀網、見たいな。吟三の風景一、二、女、どんなに変わったか。

暫く見なかったから傾向はどんなものか。

山田氏、船木氏、槍目氏、川和田氏からさっぱりした批評でも座談会でも聞いて、情況通知して下さい。匆々


十三年五月十日   軍事郵便

大日本秋田局私書函第二号   柳原庭之助様

北支乙集団牧野部隊佐藤善隊白瀬隊   柳原淳之助

拝啓

陽泉より八日残留者(患者9三十一名を七台の自動車に荷物を積載し警乗兵をして分乗させ最後の六時過ぎので「平定」に行く。九日午前八時昔陽に向け出発。途中通信の掩護となり馬家鎖村付近には道路上に大きなドロの木を七八本倒し、橋は茶々滅々なんです。

これを中隊の最前方である我が小隊が道路の両側の山の上で見張りをし、我が分隊が斥候となりこれを発見するにいたった。ここで電線は切断されていた。苦力を自動車で飛ばせ(疾馳)させ、道路の倒木を運び去らせ、一旦平定に引き返す。本十日再び出発。昨日の倒木箇所より二百米前方に自動車が陥没した。陥穽(おとしあな)土民の仕業なり。荷物を下ろしてワッショイ〳〵の掛け声で漸く通す。かくすること実に十七ケ所。或る処は川でズブズブ。岸が埋没したり。石橋がスッカリ破壊されたり。御丁寧なものです。

午後四時、昔陽に到着しました。

城壁があり、何処からでも上れるようです。アハ・・・・。

糧秣だけは何百日分もある。煙草、菓子絶無・・・・・・。

四周は敵、敵、又敵でアリマス。名誉の孤立無援です。実に愉快な所です。弾丸で死すとも、病で死なぬ決意です。ナント痛快なことでしょう。男子の本懐です。二日がかりの通信線も午後二時にはすでに切断せられました。全くの孤立無援です。

部隊本部との連絡は勿論、和順方面には友軍居らず、敵が、四周を取り巻いているわけです。

爆竹を鳴らしたり、手榴弾を投げたり居るらしい。

明朝五時交代です。この手紙がついたら暫く出せないことと思います。

幸い頗る張り切って居ります。ご心配なき様。

皆々様のご多祥を切に祈ります。  匆々

柳原庭之助様  はかりや文化部御一同様

五月十日   昔陽到着の夜    蝋燭の燈火にて

 淳之助 拝

49   十三年五月十六日  軍事郵便 点検済

大日本秋田市楢山広小路   柳原庭之助様

北支乙集団牧野部隊佐藤善隊白瀬隊   柳原淳之助

冠省

足はもう完全に治癒しました。御安心ください。

中隊は四月二十日以来纒り(太原)で活躍しています。小隊の賀内元分隊長は手形休下町です。県庁農務課技手で仲々面白い方です。

木内徳治君、磯崎君等と勤務の関係上二日おいて一日会って居ります。磯崎君は一寸風邪気味でしたが、もう全快しました。皆元気です。御安心下さい。

この城を柝にしての壮烈なる決心は既に固められ、毎夜襲い来る敵は些かも恐れませんが、小敵たりとて侮らず、大敵たりとて恐れずです。

恐れるのは敵ではなく病です。城内には水無く、下の沢の井戸、東門と西門との二か所ありますが、城外のため毎日監視兵を二名あて居ります。日中は百二三十度です。頭が暑くて堪りません。

先日中隊長の訓示中約一時間(九時から十時)でしたが、卒倒せるもの、七八名でした。

これで夜は震える程寒冷です。

朝汲ませた水が昼お湯です。全く焚き物経済です。(閑話休題)

衛生には特に注意して居ります。

変梃子な写真着いたことでしょう。チナ写真技師眼鏡外せとのこと。素通しのブッコワレタのを掛けたら・・・曲がりました。アハ・・・・。

ここ昔陽縣は山の上だため、朝夕は実に景色佳良です。詩人ならば画家ならばと、つくづく思うことがあります。

十年振りで会った鈴木宥運和尚との記念撮影も近く送られることでしょう。

何等慰安の設備無き辺鄙なこの昔陽で菓子屋の兵隊さん白川(佐竹、旧別邸向かい)さんが、日本の饅頭をつくって御馳走して下さいます。

人気沸騰・・・甘党を霑ふすこと多々的好々なりです。

同封の手紙、登町の会長殿へ届けて下さい。では又。

皆々様の御多幸御壮健を切に祈ります。

不一熊谷いや寺山吟介さんからお手紙頂戴しました。御礼申し上げて下さい。面白いことが多々好ありました。
五月十六日   昔陽縣警備隊 柳原淳之助

柳原庭之助様     御一同様

50  五月二十八日  軍事郵便 点検済 白瀬知燈

大日本秋田市楢山広小路三  柳原久子様

北支乙集団牧野部隊佐藤善隊白瀬隊  柳原淳之助

母上様

一寸と思っている内に随分御無沙汰いたしました。

宇野宣誠様から秋田駅出発より身延到着迄細々と書いて来ました。

身延駅から自動車に乗り本山よりのお迎えを受け、女坂を上り事務所でなど、それから試験・・・許可・・・等微細な筆致でした。

先日尭親師に陣中からの手紙を持って挨拶に行ったことなど、丁寧に書いてありました。

戦友佐々木武三郎君の霊に回向したとのこと。

尚御礼、御守り等封入せられました。立派な法師となられる様、行学二道を励むという決心を法悦に咽び居る眞意がよく伺われます。

二百五十年の昔ながらの聖人の遺跡を偲び思親閣、あの険路山谷を八カ年の間一日も休まず家卿房州の父母の墓を拝されたのを想起するとき彼宣誠も意中深く聖人の偉大な教化に動かされたことでしょう。

相沢芳太郎君が退任せる旨、ハガキあり。

四月二十日東日秋田版に小兵の五十嵐様への陣中便の或る一部が載りました。

ご覧のことと思います。

弘子の筆跡「トウサン」・・・孫を褒めて下さい。アハ・・・。

一昨日午後南門下士哨兵として勤務しましたが、不逞鮮人ならざるチナ人、良民証を近くの部落の土民より奪い油を石油缶に詰め一方に石を縛りつけて天晴商人を装い来るを通訳が発見。

訊問の上我が南門哨所に監禁することとなり。狡きこと又徹している。銃剣で胸を突いてもエヘラ〳〵。銃に弾丸を込めて突き付けても一言も発せず。ギロリと一瞥を与えて「プトン」の連発。「知らぬ存ぜず」の一点張り。

夜中皆で代わる代わる(大きく言えないが)ブンナグッタ。で、年齢二十九歳とだけ。通訳氏ももてあまし、翌日は何にも訊かなかった。

十一時より翌二十七日の朝四時頃まで素晴らしい射撃があった。

密偵盛んに出入りするので南門の横町に市場を作り商人をそこに入れ、野菜、卵、其の他八時から十二時迄開かせすぐ城外に追い出す。

苦力、水汲み以外は全部南門へ廻すので多忙です。

磯崎君陽泉へ入院しました。早く癒るよう祈っています。

加賀谷で一緒に泊った佐々木康雄君四月一日附きで上等兵になりました。

小兵、二十五日発表で四月一日附き軍曹に任ぜられました。お知らせいたします。

夏服に着替えて今までの綿入れ(冬服)を脱いだので軽くなりました。

日中は頭が焼ける程ですが、此の頃雨季となり、寒いです。雨季も近づいたことでしょう。じめじめの天候が続くらしいです。

大川喜助様よりの手紙と写真そのまま封入しました。もう着いたことでしょう。昨日下番(休みとなり)木内を訪ねて大川様の宛所を知らせました。この手紙は何時お手に入るやら不明です。

何しろ山の離れ島ですから。鳥も通いません。呵々。

衣替えで冬物全部の洗濯です。

空地は網が張られ一杯干してあります。一寸でもおみせしたいようです。

蠅は顔にブッチかる程、ワンサ居ります。珍しい上天気です。建長五年の本日を想起して

五月二十八日      昔陽にて     柳原軍曹

留守の皆々様の御健祥を遥かにお祈りいたします。

所員一同御家族の方々へも宜敷く御伝え下さい。



51 五月三十一日 軍事郵便 点検済 白瀬知燈

大日本秋田局私書函第二号  はかりや印刷所 文化堂活版製造所 御一同様

北支乙集団牧野部隊佐藤善隊白瀬隊   柳原淳之助

冠省

其の後の御無音御寛怒下さい。

無援孤立の昔陽県警備以来、下痢患者多数も占めたるも今ではもう大丈夫です。平定、昔陽間の電話線通ぜるは僅か二時間。道路は破壊され、土民皆匪賊の暴挙を怖れ抗日の焔を大ならしめ益々油を注ぐ・・・・・。昔陽よりの密偵

(勿論支那人)捕えられ・・・・危機日に暗雲低迷・・・。

五月二十九日南門より出動す。第○部隊本隊は中央、○隊は右側衛。我白瀬隊は左側衛となり迫撃砲をも含むは南関(南門城外の連傍せる部落、二三日以前、この南関部落の屋上より射撃せらる)を左に折れて和順街道を南進す。約二十分にしてラマ塔の右に白煙を見出す。これ敵の信号火なり。油断せず進む。日の丸鉄兜、オット鉄兜は小隊長のみだ。

閑話休題。   中央隊より上に上ってこいとの連絡・・・。山岳地帯の行進は楽でない。暑い炎熱だ! 十時というに、はやぐっしょりの汗。

迫撃砲八発、ブッ放して毎夜射撃する松林付近に轟々然と威嚇し帰昔。かくて第一回討伐は終了。

翌三十火午前八時半。河東村河西村・・・東より西北・・・の予定のところ、西北の下思楽村長より報告あり。「昨夜来李家溝村に紅軍宿営し居り、同村長抗日ノ先駆トナリ之ヲ付近部落ニ案内シ金銭糧秣ヲ強要シツツアリ。速カニ撃滅セラレタシ云々」 支那語だけれども。

隊長より「命令、中隊ハ李家溝村ノ敵ヲ撃壊セントス。第一小隊ハ尖兵トナリ河西村、下思楽、上思楽ヲ経テ李家溝村ニ前進スベシ。中隊トノ距離二百米。第三小隊ハ河西村北方高地ヲ前進シ中隊ト連絡ヲトリ李家溝村ニテ合スベシ。」

「出発」東門より出発ス。第三小隊は先陣を承って高地に驀進。急坂突屼を攀じ登り、或は地獄に通じるかと思われる千尋の谷に下り本隊とは遠ざかる。隊長より第六部隊は連絡兵を出し、中隊との連絡をなせとの厳命。頑丈な二上等兵をして先ず中隊を索めしめたり。

約四五十分にして既に気息淹々たりで疲労甚だし。灼熱の苦悩倍加。隊長決然と(心中何等か霊感ありたる如し。)斥候は連絡兵を索む。発見し意気物凄し。中隊は約一千メートル前方行進せりと。

「下山!」凛然。斥候のみ台上進行。下に降りれば下思楽。

駆け足なり。五六町にして「銃声あり」と斥候の報告に疲労も何のその。健脚は砂塵を巻いてひた走りに走る。上思楽を通る。次が目的地李家溝村なり。益々精を出す。意気なり。血腥だ!。銃声はだんだん近く猛烈に聞こゆ。

(第二第一小隊にのみ射たして堪るか!待て。俺にも撃たせよとは皆の心理なり)中隊長が見えたら、本部が居た。第一、第二小隊は李家溝村台上にて逃走せるを猛進中。

「第一小隊は右の台地占領せり。」なんて聞こえて来た。残念だ!早速李家溝村の家宅捜索を命ぜらる。注意あり。

「この部落は村長を初め抗日の激烈なるを以て充分注意せる。」

女は二三人なり。狡い奴の外は皆遁走せり。

武器は一つも見当たらざれども、至極華美な鏡付きの靴篦あり。多々的有で紅軍の宿泊せりは確実なり。村長は穴に入れリか姿を出さず。

副村長を捕える。彼はニヤニヤ笑って、茶を出す。彼が飲んだのを見て、マサカ毒が入っては居らぬと確信して、然も渇して喉から手が出るようだ。

ぐっと飲み干した。宜かったが渋い面(ツラ)をして邸宅(素晴らしい贅沢な作りだった)を案内させた。猪二匹進上するってことになった。

要人を全部捕えて訊問をなす。軈て中隊長より村民に対して一喝の訓辞あり。通訳これを支那語にて話す。

「皇軍は決して村民を苦しめるのではない。只お前たちを苦しめる匪賊共産軍を懲らし打倒すので、村民には危害を決して与えない。先頃村長は不参のためこの部落は抗日村と見做しているところ○○村の報告により紅軍居るを聞き、本日出て来たのである。日本は支那民衆とは戦わない。蒋介石の手先となって反抗し、良民を苦境に墜らしめる軍閥を清掃するのだ。彼蒋介石は徐州の戦闘に破れ、雲南省のコンメイに遁走下。

村民は日軍の援助の下に安心して生活し新政府に協力して平和境建設に共力せよ。云々。」

捕虜五六名、猪、(ブタ)二三頭、鶏を獲て悠々粛々西門より凱旋す。

村長捕えられ、西小門に縛され(三十一日)今朝白状せりと。

「除奸国主任を務め抗日の思想普及に奮起せりと。又ビラを撒布し、福周縣○○外二三名邦人名を記載し捕虜としては居るが、決して殺さずに歓待している。日軍八師の兵よ。郷里に帰るなら旅費を支給す。早く郷里に帰れ、

なんて馬鹿げたことを平かな交じりで宣伝している。

皆々様の御健祥を遥か昔陽よりお祈り致します。

五月三十一日   柳原軍曹

はかりや・ 文化堂  皆々様

磯崎君は肋膜で内地護送になるらしい。気の毒なり。

同封の山水は李家溝村よりの獲物?

草々



                               未完






第三章     日本一心のこもった恋文    柳原タケ

母タケが八十歳のときに書いた最初で最後の恋文。

夫淳之助にあてた「天国のあなたへ」です。

これは秋田県二ツ井町主催の恋文コンテスト、

日本一心のこもった恋文で第一回大賞を戴きました。

 

 

天国のあなたへ              柳原タケ

 

 娘を背に日の丸の小旗を振ってあなたを見送ってからもう半世紀がすぎてしまいました。

たくましいあなたの腕に抱かれたのはほんのつかの間でした。

三十二歳で英霊となって天国に行ってしまったあなたは今どうしていますか

私も宇宙船に乗ってあなたのおそばに行きたい。

あなたは三十二歳の青年、私は傘寿を迎えている年です。

おそばに行った時おまえはどこの人だなんて言わないでね。

よく来たと言ってあの頃のように寄り添って座らせてくださいね。

お逢いしたら娘夫婦のこと孫のことまたすぎし日のあれこれを話し思いきり甘えてみたい。

あなたは優しくそうかそうかとうなずきながら慰め、よくがんばったとほめてくださいね。

そしてそちらの「きみまち坂」につれていってもらいたい。

  春のあでやかな桜花、

  夏なまめかしい新緑、

  秋ようえんなもみじ、

  冬清らかな雪模様など、

四季のうつろいの中を二人手をつないで歩いてみたい。

私はお別れしてからずっとあなたを思いつづけ愛情を支えにして生きてまいりました。

もう一度あなたの腕に抱かれてねむりたいものです。

力いっぱい抱き締めて絶対はなさないで下さいね。

 

 


  花恋   完